ジーコジャパンレポート

2006.5.15 W杯メンバー発表

W杯のメンバー23人が決定した。日本サッカー協会は15日、W杯ドイツ大会(6月9日開幕)の日本代表23人を発表した。

都内のホテルで行われた会見でジーコ監督は事前にだれにもメンバーを漏らすことなく、ゆっくりと1人ずつ名前を読み上げた。報道陣の中から「おーーっ」と声が挙がったのは最後に読んだ「巻」の名前。これまでその才能を愛し続けた久保を外して調子のいい巻を入れたのだ。

その他の選手については順当といえる。16強入りした前回の日韓共催大会メンバーからは中田英らのほか前回2得点のMF稲本DF宮本、3月に右足甲を骨折した柳沢ら11人が代表入りした。前回は予想外の落選となったMF中村やエコノミークラス症候群のため外れたFW高原も初めて選ばれた。初選出はこのほかDF中沢やW杯アジア最終予選で活躍した大黒を加えた計12人だった。

選ばれたのは以下のメンバー。

選手名   生年月日 身長 体重  所属
GK
土肥 洋一 1973.7.25 184cm 84kg FC東京
川口 能活 1975.8.15 179cm 78kg 磐田
楢崎 正剛 1976.4.15 185cm 76kg 名古屋
DF
田中  誠 1975.8.8 178cm 74kg 磐田
宮本 恒靖 1977.2.7 176cm 72kg G大阪
三都主アレサンドロ 1977.7.20 178cm 69kg 浦和
中沢 佑二 1978.2.25 187cm 78kg 横浜M
中田 浩二 1979.7.9 182cm 74kg バーゼル
坪井 慶介 1979.9.16 179cm 67kg 浦和
加地  亮 1980.1.13 177cm 73kg G大阪
駒野 友一 1981.7.25 171cm 73kg 広島
MF
福西 崇史 1976.9.1 181cm 77kg 磐田
中田 英寿 1977.1.22 175cm 72kg ボルトン
中村 俊輔 1978.6.24 178cm 73kg セルティック
小笠原満男 1979.4.5 173cm 72kg 鹿島
稲本 潤一 1979.9.18 181cm 75kg ウエストブロミッチ
小野 伸二 1979.9.27 175cm 74kg 浦和
遠藤 保仁 1980.1.28 178cm 75kg G大阪
FW
柳沢  敦 1977.5.27 177cm 75kg 鹿島
高原 直泰 1979.6.4 181cm 75kg ハンブルガーSV
玉田 圭司 1980.4.11 173cm 63kg 名古屋
大黒 将志 1980.5.4 177cm 74kg グルノーブル
巻 誠一郎 1980.8.7 184cm 81kg 千葉

ジーコ監督会見

「4年間日本のためにすべてを出し尽くしてやってきた。世界と関わり合った経験を出し尽くしたと確信できる。ここにもたくさんの人がいて国民の方々と今日を待っている。日本のサッカー成長して社会的地位が上がったことは嬉しく思います。4年間みなさんと一緒に仕事をしてきた。練習前に隠すことなくやってきた。チームスタッフ含めてそれぞれの分野に立ち入ることなく自分の持っているものを発揮して1つの目標を掲げることがモットー。それを貫いてきた。私は監督として責任を逃れるつもりはなかったし今日もそのつもりはない。責任はすべて私にある。4年間やってこれたのは川淵キャプテンの寛大なる支援のおかげだと思っている。」

「時の移り変わりの早さをつくづく感じるのは(解説者として活躍している)浅野さん、北沢さん、相馬くんら15年前に日本を訪れた時に選手だった方が違う分野で活躍している、日本で長く関わりを持ったもんだなと思う」

「余計な話はこれくらいにしてメンバーを呼びます。川口。土肥。楢崎。加地。宮本。駒野。中沢。宮本。坪井。田中。三都主。中田浩二。福西。稲本。中田英。小野。小笠原。遠藤。中村。高原。大黒。柳沢。玉田。巻」

-巻が入ったが?
「去年当たりから所属クラブで顕著な活躍を見せた。代表としては特に今年から出る試合でいい活躍を見せてフィジカル的な強さ、それを裏付けるコンディションの良さ、エリア内での仕事をできる本来のFWの資質が高いものがある。代表の数試合でコンスタントに出してきた。今を維持していければ本大会は働けるだろう」

-一番悩んだところは?
「決めるまですべてのポジションの選出に悩んだ。4年前から難しい問題だった。欧州と国内組の融合させるチャンスが少なかった。それを4年間繰り返した中で国内でやっている選手を主体に代表に臨むことが多かった。そのために精神的、技術的にも質を高めてくれた。キリン杯の試合後にロッカールームで選手に言ったことだが著しい進歩を遂げてくれた。1ポジション2人だが、3、4、5人の選手が同じレベルでどの選手を選んでもというところまできてくれた。23人選ぶという決断したが、落ちた選手もここまで上げたレベルを気落ちしてチャンスないと思うのでなく強い気持ちを次ぎのチャンス次のチャンスと考えて欲しい。それがサッカーという職業を選んだ選手の責任。その気持ちがあれば有能な選手は出てくると確信している」

-FWは5人を選んだ。
「5名を後ろにするかFWにするか悩んだ。ポイントとして玉田が本来の良さを出し始めた。3トップで戦う可能性を考えると彼はエリアの中よりも左右に流れたり縦への早さがあり、2列目から飛び出しの良さを生かせる。彼を添えておくのはチームのためにいい。巻はエリア内でのタイプ。大黒もそう。DFでは茂庭も考えたが最終的に玉田という選択をした。松井という選手も有能だが彼の役割としては中盤の前には同じような能力を持った選手が多い。後ろは好きなやり方ではないが中田浩や福西も最終ラインに入れることができる」

-久保を外したのは?
「久保は本当に素晴らしい選手。数年間ずっと興味を持って見てきたが、それ以上に大好きだった。ただ今のサッカーにおいて、彼の良さを生かすためには非常にコンディションが良くない。現時点までずっと見てきたが、腰、ひざ、さらに足首といろいろな場所に問題を抱えていた。どうしても完ぺきなコンディションではないということで、最後まで考え抜いた結果、こういう結果になった。(骨折でリハビリ中の)柳沢はどうなんだ? と聞かれるかもしれない。自分は多くの選手を見ているが、骨折から復帰してきた選手は、リハビリの経過が良く、肉体的なものが整えば、ほとんど何の支障もなく動ける。これは自分の経験から考えても思う。柳沢は現在、普通にボールを使って何でもできる状態にある。玉田もそうだが、骨折から良い形でリハビリを繰り返していれば、あとは肉体的な問題に尽きる。彼らは本大会でプレーできるという確信を持った。自分自身の経験を踏まえても思うことだが、中途半端な形で(大会に)臨んでしまうことが、どれほどチームにとって影響を及ぼすか。気持ちの面は、どの選手も強い意志をもって臨んでくる。だがコンディション、肉体的なものはだましきれない部分がある。自分が指揮をしているこのチームで、そういうことが起こってほしくないと考え、今、最も戦えるメンバーということで今回の選出となった」

-予備のメンバーは考えていないか
「この選手、この選手と名前を挙げてスタンバイをかけることはしない。ただしルール上、グループリーグ第1戦の前まで、事前にけがなどのアクシデントが起こった場合は、選手を替えることができる。起こってほしくないことだが、仮に起こった場合には、今まで自分の下でプレーした代表のメンバーすべてにチャンスがある。たとえば前回のW杯では、ブラジルの中盤の底の選手のエメルソンが開幕前のレクリエーションで骨折してしまい、リカルジーニョという選手が抜てきされたケースがある。最後まで気を抜かずに自分を高めてほしい。あえてこの時点でスタンバイはこの選手という言い方はしない」

-監督として初めて臨むW杯は、どういう気持ちか
「選手時代は3回出場したが、その時は自分のコンディションを中心に考えていれば良かった。それ以上の難しさはなかった。次のテクニカル・コーディネーターというポジションでは、チームの中、グループの中でバランスを取りながら監督、選手、スタッフを含めて1人1人がスムーズに円滑に働けるようにする仕事だった。この仕事は特殊な仕事でいろいろな苦労はしたが、結果はある程度得た。その時に得た経験は、代表の監督をやる上で非常に生きている。今回初めて代表監督をやったが、自分の場合はピッチの中でもそうだけれども、「自由」を掲げてやってきた。それがなかなか理解されず、あるいは結果に結びつかず、厳しいご意見をいただいたこともあった。これは選手だけでなくスタッフもそうだが、自分の与えられた役割の中で、自分がチームの中で最高のものを考えてアクションを起こさない限り、それ以上の進歩は望めない。そういうやり方に慣れていない選手たちの中で仕事を始めて、4年後に実際に皆さんの前で23人の名前を呼べるような場所にいられることは、そういうことが浸透してきた、少なくとも自分のグループでは浸透して結果を得たということで、うれしく思っている。」

「自分が監督として就任した時期は、世界中で多くの方々が監督として就任した。代表監督は結果がすべてであり、結果を残せなければその座を渡さなければいけない人もいる。しかし自分は最終的に支持をいただけて、この場でW杯に臨む23人の選手を選出することができた。そのことに対して自分は感激しているし、15年前に自分が来日したときにはこういうことが起こるとは予想していなかった。本日の会見を、日本の多くの方々に生中継でご覧いただくというのは、サッカーが日本の中でそれほどまでに大きな関心事になったということ。来日した当時は想像できなかったことだ。それを思うと非常に感慨深いものがある。」

-23名が固まったのはいつか
「実際に大変な作業で責任もある。決定するのは常に2、3人のコンディションのことを考えたり、あるいはそのほかの部分を考えて固まらずにいた。最終的に名前をキッチリ出せる状態になったのは、スコットランド戦(13日)の後だった。実際にはキリンカップの開幕前に23名は決めていたが、自分で確信して発表できる状況になったのはスコットランド戦の後だった」

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