インタビュー

Leo Jaime (レオ・ジャイメ )

[2003.3.18]

あなたが1980年代を振り返ると、どんな事を思い出しますか? 今から書くのは、一人のチジュカーノ(リオ・チジュッカ地域の住人)で少しパウリスタ(サンパウロの住人)っぽい30才そこそこの人の話です。彼が思い出した当時の事は、フラメンゴの魅力に取りつかれマラカナンスタジアムで、常に10万人以上の人々が見守る中、ジーコ、ジュニオル、レアンドロ、アジーリオ、アンドラーデその他の選手がまるで音楽を奏でるかのようなサッカーをして勝利のオンパレードを擁護していた時のことでした。      

あの圧倒的なフラメンゴ以外に、音楽の事で思い出すのは、やはりあのユーモアがあってカラフルな時代に合う音程の運動があったことです。1982年の夏、アルポアドール・ビーチでサポーター達を祝すBLITZがディフェンダーを掻き分けてゴールを放り込むようなブラジル・ロックという物を繰り広げました。まだこのゲームの前半なのに色々なグループやアーチストがかわるがわる出て、しまいにはチームが使うカラフルなシャツを着ていた。

始まると沢山のギターのクラッケ(名人、職人)が現れます。その中の一人、音楽家の中で十分に10番のシャツを着てもいい人がいました。その人はゴイアニアに生まれ、サンパウロで育ちその時に父親からサンパウロFCのユニホーム一式を貰いストリートサッカーをしていましたが、いつのまにかフラメンゴサポーターになっていた人:レオ・ジャイメ。レオは一人で11人分をこなします。歌う、弾く、役者でもあり、テレビに出て書く・・・スポーツ・コメンテーターとしても批評したりしています。それでは彼の話を聞いてみましょう。

ロドリーゴ・ロドリゲス (サイトへの特別版)          

サッカーのためサンパウロに住むようになったのは本当ですか?         

いや、そういうことではないよ・・・・・           

でも、SBTのスポーツ・コメンターとして呼ばれたからじゃないの?      

いや、僕はその前に来ていたよ。役者として仕事をするためにね。“ヴィトールかヴィクトリー”という演劇でマリーリア・ペラに一緒にやるように呼ばれた。そこで一年ぐらいいたかな・・・その後リオへ行ったけど、直ぐにこっちへ戻った時にテレビ局SBTから呼ばれたのです。  

良くわかりました。で、どのようにお呼びがかかったのですか?     

関係者は僕がCBNで仕事をしたのを知っていました。一年リオに居た時に解説者をしていて、それがネットで流れていたのでね。それでここサンパウロの人達は知っていたわけです。それでシルビオ(サントス)はSBTの視聴者に、多くは女性なんだけど、サッカーの実況を伝えたいという希望があった。彼は若手であまりサッカーの専門的な言葉を使わなくて、もっとポピュラーで女性視聴者にも解かりやすい話し方をする人材を考えていた。それで僕を呼ぶことになったわけです。  

ではなぜ歌手がサッカーの解説者になったのですか?             

でも歌手が解説していた訳じゃないよ、ジャーナリストだよ!それ以上に僕はいつもサッカーに関心があった。フラメンゴの会員でもあるし、クラブの政治的な話にも参加しているし、すでに幾つかの新聞にも書いています。92年にはサンパウロのフォーリャ誌にオリンピックの記事を書いたり、新聞のランセには(ジョゼー)トラジャーノの休暇レポートとかね。サッカー・コラムニストにはなっていないけど、サッカーに関しては随分書きました。サッカーにいつも注力していたね。グローボネットにも掲載されたし。そんなこんなでCBNが気に入って僕を実況解説者として呼んでくれた。それから始まったのです。   

なぜSBTで長く続けなかったのですか?                 

それはSBTで既に放映する選手権が無かったからです。それにSBTはそちらの部門の強い設備が無かったし、スポーツ部門での専門番組もないしスポーツに関する代表的なジャーナリズム番組もなかったからです。彼らはそれほど興味が無かったね。実際シルビオ・サントスはもっと大衆的なジャーナリスム番組を好んでいたようです。  

解かりました。あなたのそのスポーツ脈をこれから何処に連結して行くつもりですか?

そうですね・・・一つ番組を作りたい・・ラジオのね。テレビで試合を語るのは悪くないですが、でも日曜日などにやっている丸いテーブルとかは正直言ってあまり得意じゃない。

まず大体の人達は言いたいことを言わないし、雰囲気がいつも後味の悪くなってしまう。僕は呼ばれたら行きますけどね。もう何度かTVヘコルドのミルトン・ネーベスの番組(テレビ・レコードの三番目の時間)にも出席しましたが、僕はもっと開けっぴろげで面白い話をしたい。ラジオはそういう容易さがあるね。 

では何故レオ・ジャイメのサッカー番組がどこのラジオにはないわけ?

分かりません。ジョーベン・パンでデモ(試験的なパイロット・番組)を昨年やった事がありますけど、あれはどうなったのかも知りません。プロダクションはあの後それについての説明をもしてこないし。そういう風に話は出るのですがどれも確定的なものではないね。 

そのレオがジャーナリズムに入るきっかけはどうだったのですか?

まだ高校生で若かった頃、大学受験をする時ジャーナリズムを考えていた。何が自分の気持ちを高めたかと言うと、書けるということだった。僕はミュージシャンだけど演奏者じゃないね、言葉なしでは仕事ができないのですよ。音楽が好きなのは言葉がそれを補佐している時なのです。基本的に言葉が好きです。演劇にしても、音楽にしても・・・だから報道のフィクションが好きです。       

それであなたはあちこちに頭を突っ込むのですね。音楽、演劇、テレビ、新聞、雑誌・・・

何にでも入り込みます、もちろん謙遜を持って。でもやるからには責任も持つし成功をさせることも考えます。そのお陰で今でも色んな分野で活動できるようになっています。

1988年にテレビの事について書いてくれと新聞のグローボに頼まれて書き始めました。テレビのことから始まって他のテーマにも広がって、その内に付録のコラムニストにもなり、つまりまだどのジャンルかが決っていなかったのですね。一つだけ音楽については書かせないでくれとお願いしていた、それをやると非常に微妙だと思ったから。石を作るのとガラスの破片を作るのを同時に出来ないと思った。だけど、その他のことでは僕は興味が有ります;映画、演劇、・・・周りで動く文化的な振る舞いなどは。 

スポーツは一つのアクセサリーのように思います。というか、文化と振る舞いは僕のコラムに規則正しく並んでいた;カプリッショ(雑誌)、オ・ジーア(新聞)、デスフィーレ(雑誌)などで・・・・・      

それにあなたは長い間グローボ新聞の付録マガジンにも連載していましたね。若者達への教育的な意味合いもあるテーマみたいな感じで・・・・                  

ある事柄(誰も知らない事だけど)が僕にとっては凄く人生に刻まれることになりました。例えば;UFF(フルミネンセ連邦大)の受験模擬試験で僕のマガジンでのコラムで書いた“ブルツーとオリビア”について感想の作文せよ、と言うのがあった。それは若者の美学の基準をコメントしたものだったけど、このように一つ教育文化についてのページに載せ、それが大学受験のテーマになるなんてもう最高ですよ。つまりそれは人気が出るわけでもないし、お金が儲かるわけでもないけど、それは同時に凄く大きいことだと思う。それにまだあるけど:パレイラ(セレソン監督)から僕のコメントやその他について賞賛の言葉を聞いただけでも十分です。偉大な監督(ワールドカップで優勝したことがあるような)が紳士的に僕に“よお、君のコメントは気に入ったよ”といわれるのは何とも言えないよ。このような人達に認められることは人気やお金よりも価値があると思う。 

正にその通リですね。さて私達に一つ話してもらいたいのですが;どうやってこの色んな分野での成功畑を歩めるのですか?反対に自身の起源である音楽についてはもう長い間新しいレコードも発表していないが?(レオは1995年から新曲を出していない。)おかしなことに私はあなたをテレビでショーをやっているのしか見たことがない・・どう説明しますか?

―うん。大体がレコード会社は売れない物を録音したがる傾向にある。だから皆録音する。僕だけしない。僕はライブで座席を一杯にしているし、自分から進んでラジオやテレビにも出ているしね。庶民は僕のことが好きらしい。賄賂とかそんなものではない。僕がテレビに行くと視聴率が上がるという!だから彼らは呼んでくれるし、暫くメデイアから遠ざかっていた僕にも新鮮です。それに以前の繰り返しではないですよ。

20年間途切れなくテレビに出て居た訳ではないです。今、音楽とともに戻り、周りはみんな期待しています。レコードを録音していなくても何処でも扉は開けてくれています、レコード会社以外はね。                             

何故あなたはそれが起きていると思いますか?                 

何故かというと、一度あるレコード会社と裁判沙汰があって僕がそれに勝った。それが他社にも知れ渡り、みんなで僕を冷蔵庫に押し込めた感じだね。それでまた訴訟して妥協もして勝ったけど、それ以来レコード会社は僕と話したがらない・・・最後に出したレコード(1995年、僕の心から直接君に)は妥協した部分だったものでそれ以来無し。彼らは売れないものを録音するのが気に入っているはずだと思うよ。          

ではあなたはそのレコード会社のディレクター達はサッカーの運営者のチームに入れると思いますか? 

―それは本当ですね。彼らは同じ知恵を使っていますから・・・(苦笑)     

話題をギターからボールに変えます。なぜゴイアーノがリオにあるチームであるフラメンゴの熱烈なファンになったのですか?  (ゴイアーノ=ゴイアス州出身者のこと)              

子供の頃(6歳か7歳だった)からフラメンゴを応援しようと思っていました。サンパウロに移り住んだばかりでボタン・サッカーゲームが流行っていた。誰もがそれぞれのチームがあった。僕も店に買いに行った。文房具屋だったと思う。そうしたらフラメンゴのがあったから直ぐに「あれが欲しい!!」と。

それにスタジアムには行ったことがあった。僕のお祖父さんがアトレーチコ・ゴイアニエンセというチームの創立者の一人だったから、そのチームカラーは黒と赤だった。だから家族で赤黒軍団だったのです。お祖父さんはフルミネンセファンなのにフラメンゴのカラーチームを作ったからね。叔父さんとも試合を見に行ったこともある。同じゴイアニアのビーラノーバと言うチームだった。でも僕は既にフラメンゴの色と、名前に親近感を持っていたね・・・。一度父親がサンパウロのユニホームをくれたことがあった。フラメンゴのではなかったけれど僕はそれを気に入った。何故かって赤と黒があったから・・・フラメンゴの二番目のユニホームにも似ていたし!!(笑い)説明不可能な情熱だよ。    

ところでレオ、ジーコはあなたの情熱にどこから入ったのですか?                   

ある時、ミルトン・ネーベスの番組に出席したことがあった。そしたら彼はマラドーナを誉めることを始めて“ペレの次に世界で名選手だ”と言った。そこで僕は言ったね;“ミルトン、低いね、すごく低いよ。マラドーナはアルゼンチンでは最良の選手だね、ただ南米でも最良かは分からないよ”と。で、ミルトンが聞いた;“じゃあ、誰が最良だい?”ぼくは答えた;“ああ、そこにいるジーコもレアンドロも・・・彼より良い選手は幾らでもいるよ。”

ミルトンはやり返すように“とんでもない、ジーコはチームでの選手だよ!”と言った。

この会話を知っているかい?あの番組の場所にはシーラスも居たし、アマラウも居た。そこでぼくは;“ミルトン、あなたは選手ではなかった。実際にジーコとマラドーナ両方とも対戦した人に聞いて見ましょうよ。” アマラウはデフェンダーだったのでこの二人に対応しなければいけなかった。他に返事を探すまでもなくアマラウは言った;“私はジーコ一人よりもマラドーナ10人を相手にしたいと思うね。ガーロ(ジーコ)がボールをトラップした時、いや彼はトラップするよりボールを受けた瞬間に他の誰かにパスしていたね。だから、彼の先読みなど出来ないさ。マラドーナは片足しか使わなかった。いつも同じ側へドリブルしていた。だからあの彼の異常な左足だけの先読みをしていればいい訳さ。ジーコは両方の足を使っていたからね、彼は片方でトラップしてもう片方でシュートする事が出来た。”それにレアンドロも普通じゃなかったね。凄い機敏性があった。右サイドバックとしては間違いなくブラジルでは一番で、それこそ“右”に出る者はいなかったね。さらに何処のポジションでも出来た。一度フラーフル戦(フラメンゴvsフルミネンセ)で見たことがあるけど、中盤でパスを受けた瞬間ダイレクトでキーパーを超えるロングシュートを決めた。見事なゴールだったよ。          

あれは後半45分の時じゃなかったかな?私が覚えているのはフラメンゴが負けていた試合だったと・・・・・          

その通リです。さらに言わせてもらうと、マラドーナより上手いと言うならジダンだっていますよ。どうしても評価は低くされてしまうけど、ぼくに言わせればレアンドロやジダンはマラドーナより上手いですよ。ジーコまでに及ぶことはないですが。     

ジーコの時代と言われた頃、あなたはどこに住んでいたのですか?リオに住んでいました?   

リオに住んでいました。1977年、78,79,80,81・・・と試合も全部見に行きました。ジーコとの話もあります。ガーロ(ジーコ)とも友達にもなれた、というのは丁度フランカラッチ(当時フラメンゴのフィジカルコーチだった人)の前にたまたま僕も住んでいて、選手達と同じジムに通っていたのです。それで赤黒(フラメンゴ)のファンである僕は良く選手達と雑談していました。そこで僕はジーコに最初のCDをあげたのです。それには「20人の娘達の週末」と「シャボン玉」が入っていました。その直後に彼はイタリアへ行きましたが、彼の家で最も聞かれていたのがその僕のレコードで、子供達が凄く気に入っていたようです。ポルトガル語のロックンロールで楽しい感じのものでした。子供達と一緒に聞いてくれているうちにガーロ(ジーコ)は何気なくレオ・ジャイメのファンになったのです。彼がブラジルへ戻った時に“見たかよ、これで君も有名人だぞ”と冗談を飛ばしたものです。(笑い)ジーコはいつもアミーゴ(友達)と慕われています。彼、僕と同名のレオ、ジュニオルと同じように知っている。               

レオ、ガリーニョの芝生以外の経歴をどう見ますか?これは赤黒(フラメンゴ)ファンである歌手にでなくて、コメンテーターとしてのあなたに聞くものです。                

そうですね、CFZというのはクラブの名前としては良くないね・・・ジーコ・スポーツ・クラブにするべきだと思う。みんながジーコ、ジーコと叫べるようにね・・・どの赤黒サポーターも叫びたいと思う。それはフラメンギスタ(フラメンゴ・ファン)にとって二番目のチームになるから。アメーリカと言う代わりにね。それ以外に協会などはCFZが一部に上がらないように難題を作ったりもした。スクールは良いと思う。だけど遠いね。それにジーコはもっと今以上に利用されてもいいと思う。彼の知識、能力やキャラクターは他のどんな物よりも上だと思う。日本での方がブラジルより価値を認められていることは残念ですね。日本でやっていることをこのブラジルでやれればもっと良いと思う。 

ジーコのオフィシャル・サイトとスポーツ愛好者、このサイトの偉大なヒットの理由・・・あなたとジーコという個性の経歴が共通する意味は何でしょうか?  (レオは自身のサイトを持っている: www.leojaime.com.br )    

僕は仕事の関係者とのコミュニケーションを維持している。一人一人に手紙を書いては大変です。Eメールは簡単ですが。サイトのコメントを切断するのは卑怯だよ、いつもコメントしていますよ。毎日読んだりいじったりひっくり返したり、必要とあれば僕と対話もしたりね。僕は常にアクセス出きる状態で入ることを考えていますし、誰ともコンタクト取れる範囲にいるつもりです。何か違ったことがない限り、自分は星だと思った事もない。いつもコミュニケーションとアートの労働者です。新聞に書くともっと沢山の人にアクセス出来ます。でもサイトは同じように沢山の人とは出来なくても、接近は出来ます。お互いに直接話すことが出来ます。僕はこのサイトを通じてたくさん友情も作りましたし、たくさんの人達が僕を知ることが出来たと思います。 

では、今日からあなたもジーコのサイトに現れることをお願いします。   

オッパ、ヴァーモスネッサ!(よつ、それで行こうか!)僕も書きたいよ・・・ただジーコは彼のサイトで僕を辛抱しなければならない!(笑い)

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