インタビュー

Junior(ジュニオール)

[2003.12.22]

12月のある午後、フラメンゴ会長選挙の前日だった。電話の向こうにはレオヴェジウド・リンス・ガーマ・ジュニオル。赤黒軍団の偉大な元選手の一人であり、70年代から90年代始めまでフラメンゴに在籍したというレコードを持つ。彼はあの週にマルシオ・ブラーガ新会長からフラメンゴのテクニカル・デレクターを任命されるとはまさか思ってもいなかった。その可能性の予感についてこのサイトに語った。フットサルを始めた事も、フラメンゴでの楽しかった事も、ブラジル・セレソンのことも、ビーチ・サッカー・セレソンを引退したことも、それにかなり好評を得たミュージシャンへの道という冒険のことも語ってくれた。 

このインタビューは別の意味で私にとって特別なものとなった。なぜなら思ってもいなかった強力な助っ人も得ることが出来たからだ。それは私以上にフラメンゴの黄金時代を築いた選手たちの活躍を知り尽くしている私の父である。彼が私にサッカーのことを教えてくれ、マエストロ・ジュニオル(指揮者ジュニオル)との一時間以上に及ぶ会話の横に付き合ってくれた。  

何度も私に質問の紙切れを渡すうちに、自分が経営者である事をすっかり忘れて、ジャーナリストに早代わりし、私と一緒にインタビューをしていた。私は、このサイトの編集者として父が次のインタビューをした事に誇りを感じている。それに質問内容にはジーコの参加もあったのだ。          

リーノ・ネーヴェスとブルーノ・ネーヴェスによるインタビュー             

-ジュニオール、どうやってフラメンゴで始めたのですか?              

 すでにフラメンゴのフットサルをやったことがあってね。6年ほどシリオ・リバネースでプレイしたけど、同じ時期にジーコはアマリウドの父親のチームでプレイしていた。

 彼等は登録されていなかったので、シリオもそうだけど、僕等は何度か大会で戦った。1970年に僕はフラメンゴのサロンで練習するように呼ばれ、その年の終わりまでいた。2年後にはグラウンド・サッカーをブリアに呼ばれてやった。

 ブリアは40年代の偉大なアイドルで、あの時は監督をしていた。ブリア先生は僕の叔父さんの友達だった。あの頃は僕が行きたかった訳じゃなかった。何故かと言うと受験準備をしていたので影響が出ると思ったからね。だけど、上手く行ってジュヴェニールのカテゴリーでプレイした。現在のジュニオール・カテゴリー(18-20歳)かな。74年の終わりにはプロ・チームに入った。   

-フットサルにグラウンド・サッカー・・・でもあなたはビーチ・サッカーで育ったのですよね?ジュニオール。  

 その通リ。ビーチ・サッカーはフットサルをやっていながらでも絶対辞めなかったよ。僕にはビーチは一つの情熱であり偉大な学校だった。グラウンド・サッカーに入ってのシュートやキックはそこで育まれたものだからね。ジュヴェントスと言う現在まで在るけど1933年に創立されたチームで始めた。コパカバーナのドミンゴス・フェレイラ通リとフィゲイレード・デ・マガリャンエス通リの住人達で、ルイス・カモンエス・ビルのグループだった。僕はあそこで9歳から始めて19歳でフラメンゴのプロに入るまでプレイした。その後 , 1975年からは毎年ジュヴェントスのビーチ・コートを使って大会を運営して自分もビーチ・サッカーから遠ざからないようにしている。芝生のサッカーを引退してからは、僕は8年ビーチ・サッカー・ブラジル代表チームの一員として出場していました。           

-1992年には40歳に近いあなたの体力的な話も出ていましたね。その事について考えたことが有りますか?  

 もう10年位前からその事は調査の良い標的になっていたね。現在37歳、38歳の選手が結構います。だけど、僕とトニーニョ・セレーゾなどはそれの開拓者みたいなもので年齢のタブーを破っていたね。僕などは38歳でセレソンに入っていたからね。それで92年には一年間もパレイラが94年に向けて準備していたチームでプレーした。それにフラメンゴでも出場した試合数はジーコより短い期間でずっと多いよ。あまり怪我をしなかったからね。だから僕はクラブで860試合出場の記録を持っている。だけど、その基になったのはビーチでの選手育成期間があったからだね。僕の選手経歴では間接部などの怪我は殆ど無い。それが選手生命を長持ちさせたのだと思う。          

-あなたはジーコとフットサルで戦ったと言いますが、何か思い出すことが有りますか?

 13,14の頃だったな、よく一緒に試合した。ジーコはフットサルではわんぱく小僧だったよ。彼は凄く痩せていたけどボールを操る質は驚きだったね。あの男の子をマークするのは無駄だった、何故ってそれは不可能だったし、相手の動きを読んで潰していてもう平均以上だった。相手にした時でも同じ。アジーリオもジュリオ・セザールもあの頃いっしょになってゲームに入ってそれで知り合いになって行った。74年に州選手権チャンピオンになった時からジーコとはもっと親密になった。僕の初試合でジーコはもう上のチームに入っていたけど合宿では同じ部屋になり仲良くなったね。         

-その*パライーバ系リオッ子と言う話はどういう事ですか?        

 僕の父親は僕が5歳から6歳になるときにリオへやって来て、コパカバーナに住んだ。

 僕はそこで結婚するまで一緒にいた。そこで、幼年時代のあの頃の娯楽と言えばドミンゴス・フェレイラ通リでペラーダ(草サッカー)をやるか、ビーチサッカーをやるかの2つだった。必然的にサッカーをもっと好きになり、そういう遊びの中でリオ・スタイルを掴み取って行った。今、49歳に成るけど自分はリオにもらわれたカリオッカ(リオッ子)だと言える。それにペードロ・エルネスト・メダル(リオ市のメダル)を貰っているし。だけど、僕はパライバーノ(パライーバ出身者)だという誇りも持っているね。向こうには家族、親戚が多くいるので、暇を見つけては時々行くようにしているよ。 

(*=パライーバはブラジル東北部の州名)                        

-それでリオに来た頃はフラメンゴを応援していなかった・・・・・・・  

 それはチームの伝達環境の問題だね。どうしてかと言うと、僕の父親と爺さんもフルミネンセのファンだった。二人が僕を初めて試合観戦に連れていってくれたが、それが63年のフラメンゴ-フルミネンセ戦だったのを良く覚えている。兄のリーノも一緒に行って、観覧席に入ろうとしたが、もう一杯で入れず立見席になってしまい。僕はずっと終わりまで父親の肩車で見ていた。それから10年後には僕がそのフラ-フルの主役に入っていたのだから不思議なものだね。                     

-フラメンゴのユニホームを着ることで“二枚目の肌”と言う表現をしたのはどういう事ですか?             

 これはね、フラメンゴでプレイした選手に当てはめる最良の定義だと思う。フラメンゴでプレイするには大変大きな感受性が無いといけない。この敏感な感受性はユニホームからも来るんだ。このシャツを自分の肌の一部だという風に感じないといけない。この表現は僕がチームやクラブへ自分の持っているものすべてを見せたい時に生まれ出たものです。それが意外と大きな好感を得て未だにサッカークラブとの親密関係を示す時に使われている。    

               

-この強い認証はあの黄金のフラメンゴ世代のトレードマークだった。もう一つは和やかな雰囲気で、誰とでも冗談を言ったりすることだった。それについては・・・・・・・・ 

 何故かというともう73,74年頃からの仲間だったからね、その友情の絆は大変強かった。新たに加わる者はいつもこのフラメンゴのグループの事を茶化していたけど、すばらしいグループだった。ふざける時間と練習の時間をしっかり区別していた。決して一人のプロフェッショナル精神に当てはまる選手を差別するようなことは無かった。だからどちらかと言うと少しでも早く溶け込めるように新人をからかったりすることが多かった。ハウー、リッコ、ヌーネスにマリーニョ自身も。そう言うふざけは溶け込むことに役立っていたね。それが基盤になって目標に辿り着く時に最高潮にさせていた。   

-全体的な結束がフラメンゴの秘密だったのですか?               

 あのチームがフラメンゴ・クラブの黄金時代を代表していたのだと思う。パトリーシア・アモリンは水泳選手、バレーボールのメンバーもあそこにいた人達はみんな応援していて、共助精神みたいなのが存在していたね。ある土曜日などに練習があって、その時バレーボールの試合があると我々は練習を止めて女子や男子を見に行ったり、水泳の大会があれば皆でパトリーシアを見に行った。あの頃は皆がお互いに他の部門を応援していたよ。  

-プロでの初試合について、アメーリカとの決勝だったけど大事な得点をしましたね?  

 そう、74年リオ州選手権の決勝だった。プレイ・オフの決勝1試合目でエリアの外からのゴールを決めた。これはアメーリカに対してだけど、ヴァスコの時は頭上を超えるゴールを決めた。ヴァスコの選手から中盤でボールを取りそれをすぐにシュートした。それで僕等はチャンピオンになった。僕の経歴で初の大事なタイトルになった。   

-“ヘルメット”というニックネームは何時頃ついたのですか?           

 78年か79年だったと思う。アメーリカの右ウイングにヘジナウド選手がいて、あいつが僕のあの頃のヘアースタイルを見て言った。 

-あなたはフィールドの中で殆どのポジションをやった。サイドでは右から左にも移動したね? 

 二年は右でやった。トニーニョがフラメンゴ来た時に左に慣れるようになった。 あまり難しくは無かったね。右利きだけど、フットサロンの経験が有ったから気にならなかった。僕は結構マーキングのセンスは良かった。それ以外にサイドだけど、中盤の動き方をするように考えていたし、チームもそういう僕の動き方に合わせて僕が最良な条件になるようにしていた。

-あなたは1978年には最高だったけど、セレソンには呼ばれなかった。あの時のセレソン監督は仲の良いコウチーニョだったけど、それについて話し合ったことは有りますか?            

 話しましたよ。彼は言っていた、「君を連れて行かなかった事に自分は凄く後悔している」と。僕は言った、「キャプテン、もう過ぎたことだよ。」僕はこの同じ気持ちを79年にも味わった。彼が召集をかけたことを知ったときにね。78年の大会にはロドリーゲス・ネットとエジーニョが行った。彼は僕には説明をしなかった、そのまま空中に葬られたね。

―セレソンの話で、82年のチームは史上最良だったと良く言われますが?       

 僕等の丁度70年代終りごろだったね。そこに80年、テレ・サンターナが来て、86年まで一緒だった。残念なことにタイトルは取れなかったけど、世界でも今日まで評価されているあのチームで一緒に出来たことは凄く感激でした。その時間一つ一つが可能な限り最良だったと思います。二回もワールドカップに出られただけでも価値があります。もう少しで90年にも行かれそうだったけどね。あの時はセバスチオン・ラザローニ監督だったけど、理不尽な理由で行かれなかった。召集の時には正直言って、僕よりも低いレベルの選手が選ばれていた。けど、それも話の一部として、僕はそれを残念がってもしょうがない事。でもセレソンでは随分貴重な時間を偉大な中間達と過ごす事が出来ました。それを悔やむことなどしないし、とても偉大な経験だったとい思う。     

-フットサルの選手、ビーチ・サッカーにフィールド、そしてサンバの歌手と、音楽はどうやってあなたの生活に入ったのですか?

 音楽はいつも僕の家族の中に存在していた。僕の祖父がバイオリンを作っていた。叔父さんがタンバリンを叩くのを見て僕も覚えて、兄弟達も皆楽器を使った。ネッカはカヴァッコを、リーノは各種の打楽器を、僕の息子もカヴァキーニョを引いた。つまり、音楽は昔から家族の中で生活していたね。82年のワールドカップの時は、僕はいつもサンバの中に居たよ。アウセウ・マイアと言うブラジルでも名の有るカヴァッコ演奏者がいて、僕の同郷者だけど、兄貴とバレーをやっていた友人でメメッコの音楽を持っていた。僕は色々混ぜるのは好きじゃなかったけど、結局“幸せな庶民”という歌を吹き込んだ。別名“飛べ、小さなカナリア”で有名になったけど。これは意外にヒットして大会期間中、23日間で62万6千枚も売れてしまった。その後、2枚のLP版と一枚のCDを作った。95年にフラメンゴに戻った時にクラブの創立100年記念としてアウセウと組んでフラメンゴのためにCDを吹き込んだ。これは技術的にも自分では一番良く出来たと思っている。もっと経験も積んだこともあるし、大体が好きだからね。もちろん、“飛べ、小さなカナリア”をいつも頭に入れて、いまだにこの歌は好まれているよ。                               

-ジュニオール、現在のフラメンゴは?どうしたらこの低迷から抜け出せると思う?   

 ここ暫くの間にクラブを運営して来た人達は、組織の大事な部分を後回しにして他のことをやり過ぎていた。まず政治的な部分ばかりが先行して、それが積もって今の悪い情況になってしまっている。まだ破産しないでいられるのはやはりフラメンゴだから。だから真面目に本当にクラブのためにやれる人材が近代的な考えを持ってやれば立ち直れるはずだと思う。金銭的に利益ばかりを追求するみたいにクラブを使うべきじゃないと思うね。          

-将来フラメンゴのために働きたいと考えますか?           

 もちろん。僕等がいた70年代の頃のクラブのように設備も整えて、情況が良くなればサポート出来る余地は有ります。僕もまだプロとして働かなくてはいけない立場なので、まだ引退する時ではない。でも定年退職したらクラブのために何かしたいとは考えています。フラメンゴには何かを分担しないといけないと思う。自分が一人前の男に育成された場所だからね。いつかはその借金を返さなければ。

-ちょっと話は戻るけど、ビーチ・サッカーにはどうやって入ったのですか?     

 もう辞めてから二年になるね。最初はマイアミで1993年の7月だった。それから南もトラマンダイーのアメリカ杯までプレイした。あまり言いたくないけど、このスポーツは今のよりもっと認められていても良いと思うね。僕が始めた頃は殆ど無名だったこのスポーツを僕が推進に手助け出来たことが唯一嬉しいこと。現在では随分増えたね。確かに僕が辞めてから少し変わった事はあるけど、いつか又自分が必要だと思える時が来ると思う。ただ、選手として辞めただけで、いつも感心はあるし応援している。まだ関わっている人たちの暖かい気持ちもあるしね。それでも随分間違いもやっていた。もっと下部組織への投資もするべきだったと思う。それもあって辞めたのもある。 

 一部のメンバーがイベントだとか経済的な事ばかり言う中で、僕の考えはもっとこのスポーツを拡大し発展させる事だった。下部組織から投資してしっかり積んでサイクルを考え、大きくさせて行く事をしなければ長続きしないと思うけどね。

-ビーチ・サッカーへ監督か運営管理者かで戻りたいと思いますか?      

 多くの事を改革する必要はありますね。短期間ではこの可能性を見出せない。参加したけど難しいね。でもそれはさほど大事ではない。自分は今までこのスポーツの一部の歯車として動いて来ている。満足はしています。

―それで、このビーチ・サッカーを通じて社会福祉というのはどうですか? 

 もう4年前からちょうどジュヴェントスともに“指揮者ジュニオールのビーチサッカー・スポーツ・センター”というのをやっています。コパカバーナのフィゲレード通リの前のビーチでやっています。タバジャーラス、パヴォン・パヴォンジーニョやシャペウ・マンゲーラにドーナ・マルタに住んでいる貧しい子達、350人ほど居ます。我々はこうした6歳から16歳までの男の子達にこのスポーツを教えています。子供達は全員学校に通っている証明書が必要です。だけど、市長が変わって当局は援助を止めてしまいました。別にフルナスと言う電力会社の後押しでヴィラ・ヴィンテン区のクルゼイロ・クラブの中に同じタイプのスクールを開設して、それは2年目になります。全部無料奉仕で利益無しのプロジェクトです。今14家族を養い、それは増える方向です。最近ではアンジェロ・ケイロース大臣との会見もあり、我々のプロジェクトもスポーツ省の中の一つの例として取り上げられました。僕は何か分担して社会奉仕をしたいと思う。我々の基本的な考えは人間育成で、一人前で生活を続けられるようにしたいことです。      

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