インタビュー

JORGINHO(ジョルジーニョ)

[2003.10.09]

フラメンゴの試合が苦しい展開の時、ボールが右サイドバックに渡るとサポーターは必ず一人の人物の名を思いだす。その名はジョルジーニョ。彼が1989年にガーヴェア(フラメンゴ)を後にしドイツへと渡ったその日から繰り返される想いなのです。アメリカ(リオ州のクラブ)で育ち、フラメンゴで開花した、ジョルジェ・デ・アモリン・カンポスは17年間に渡りプロサッカー選手として輝き続けたのです。1994年にブラジル代表としてW杯優勝を筆頭に、数多くのタイトルをフラメンゴ、ヴァスコ・ダ・ガマ、バイヤー・レバークーゼン、バイエルン・ミュンヘン、そして鹿島アントラーズで獲得したのです。素晴らしい実績を残し、現役を退いた現在、39歳にて彼は将来への野望を抱えエンプレザーリオ(代理人・興行主)の世界へと足を踏み入れたのです。「私はブラジルサッカー界の組織変革を行いたい」と語るジョルジーニョの言葉には、まるでサイドバックでの突破力の力強さと、中盤への転向を象徴する特徴的な冷静さとインテリジェンスを兼ね備えた現役時代の溢れんばかりの情熱を感じるのです。ジーコのE-Mailによる参加で、ジョルジーニョは本サイトへの取材で、自分の過去と将来クラブ経営者への願望に付いて話してくれたのです。そして、達成に向け着々と準備を進めているのだと言うのです。更には、アメリカ(リオ州のクラブ)が設立100周年を迎える来年、クラブの再建プロジェクトがあることも明かしてくれたのです。

ジョルジーニョさんはサイドバック及び中盤の選手としても活躍されましたね。ところで、実際に貴方はどのポジションでサッカーを始めたのですか?

本当のところはザゲイロ(DF)から始めたのです。アメリカでテストを受けた時もザゲイロ(DF)になる為だったのです。でも、あまりにも背が低く、ジガンテ(巨人)と云うニックネームまで付けられたくらいです。そこで監督にサイドバックでプレーするように指示され、すぐに右サイドバックへ転向したのです。しかし、私が18歳の時、初めてマラカナン・スタジアムでバスコ・ダ・ガマと対戦し2-0で勝った試合ではザゲイロ(DF)のポジションで出場したのです。試合でロベルト・ヂナミッテをマークする使命を受けた事が、私にとって今でも最大の喜びの一つなのです。あの試合、ヅイーリオ選手の怪我により私が出場した事も憶えています。アメリカでは、ザゲイロ(DF)、左サイドバック、ウィング…と、ゴールキーパー以外は殆どこなしました。

不思議な事に貴方は、ジューニオル・カテゴリーからフラメンゴに在籍しているにも関わらず、サポーターはまるで下部組織で育ったガーヴェア(フラメンゴ)の生え抜き選手の様に見ていますよね。貴方に対するこの強いアイデンティティは何だと思いますか?

私はフラメンゴの下部組織で育った選手ではなく、20歳で訪れ、そして25歳でクラブを去る迄の期間、リオ州選手権を1回、グァナバラ杯を数回と1987年のブラジル全国選手権を優勝しているのです。でも、一番の印象は、1984年にプロチームに抜擢された時、リオ州大会の開幕戦対ボタフォゴ戦でモーゼルが怪我をし、当時右サイドバックだったレアンドロがザゲイロ(DF)へコンバートされた事だと思います。レアンドロ自身、監督に対し自分はサイドバックからザゲイロ(DF)へ転向したいとの意向を直訴したのです。そして、モーゼル復帰後は二人でザゲイロ(DF)コンビを組んだのです。しかし、レアンドロはフラメンゴと強いアイデンティティを持っており、尚かつ私にとっても彼は世界最高のサイドバックだったのです。そして、サッカー史上彼に代われる選手はいまだかって存在していないのです。そこで私自身、徐々にその任務と歴史を背負い始めた訳です。使命を果たす事が出来、クラブ自体も結果を出し、フラメンゴの選手として代表へ収集されたのです。フラメンゴは実際に私をサッカー界に送り出し、ブラジル、そして世界的に名を知らしめてくれたクラブとして印象付いたのです。そして、ガーヴェアからドイツへと移籍していった訳です。大変言い辛い事でもあるのですが、私以降、実際に右サイドバックとして完全に定着した選手がいないと云う事も関連しているのではないでしょうか。ジョジマールとシャルレス・ゲッヘイロはあいにくサポーターと自分と同じ様な関係を築く事が出来なかったのです。その後、右サイドバックの選手はことごとくサポーターに支持されていないのです。現在、中盤で活躍をしているファービオ・バイアーノ自身、一時期はサイドバックとしてサポーターに受け入れられず、辛い日々を送ったのです。

サッカー界で貴方の目標となった人物とは?

私にとってはレアンドロ選手の存在が断然一位でした。私が興味を持ち始めた当時、ペリヴァルドやオルランド選手もいたのです。トニーニョ・バイアーノ選手のスピードとセンタリングが好きで良く見たものです。でも彼らの長所を全て兼ね備えたレアンドロ選手は特別であり、彼に勝る選手はいなかったのです。私はW杯で優勝したとは云え、レアンドロ選手のレベルには到底及ばないのです。彼は世界でも数少ないアビリティー(能力)の持ち主なのです。誰にも真似が出来ない印象的且つ感動的なプレーをエリア内で行っていたのを見ているのです。ザゲイロ(DF)又はサイドバックとしてもです。アビリティーに溢れ、パワーが有り、クロスの制度が高く、そして両足でシュートが出来、更には守備が上手いと云う、正にパーフェクトな選手だったのです。

フラメンゴ時代にジーコと共にプレーをした経験に付いて語って頂けますか?

私に取っては特別な一時でした。70年代後半、フラメンゴの動向を常に見ていた事もあり、私にとっては子供時代からの夢が実現した瞬間だったのです。実際には1978年からマラカナン・スタジアムへ足を運ぶようになり、その翌年にはチームは最強となり常勝軍団と化したのです。大変興味深い事に、私の家族は全員バスコ・ダ・ガマのファンだったのです。この事からもあまり公表はしなかったのですが、事実、私の心は既にルーブロ・ネーグロ(フラメンゴ)に鼓動していたのです。衣替えしたと言われない為にも黙っていたのです。でも私はフラメンゴが大好きで試合は必ず観ていた訳です。だからこそ、フラメンゴに入団した時は感激的でした。それまで、ジーコ、アヂーリオやアンドラーデのサインを集めていた私が、突然彼達と共にプレーが出来る事になったのです。1984年にはジーコ自身は未だイタリアでプレーをしていたのですが、その翌年には戻って来たのです。大変素晴らしい感動的な出来事でした。何故なら、彼は憧れの人であり、触れる事の出来ない人物像を描いていたのですが、実際に日々一緒に過ごす事により、如何に真のプロフェッショナルであり、飾り気が無く素朴な人物で、アミーゴ(友)と呼べ、そして常に若手にアドバイスをしてくれる、崇拝すべき存在かを知る事が出来たのです。更には、厳しくすべき時は厳しく注意してくれるのです。だからこそ、素晴らしい経験が出来たのです。私は彼の下でプロ意識を学んだのです。事実、ジーコ選手の様な人物と日々を過ごせた経験は、私の最大のアイドルでもあったレアンドロも含め、他にはいなかったといっても決して過言ではありません。ピッチ内ではファンタスティックの言葉が適切であると同時に、ピッチ外でも常に快く、特に新人に対してサポートを惜しまない心構えの持ち主だったのです。膝の怪我後には彼のひたむきな姿勢と献身ぶりを目の当たりにしました。必ず誰よりも早くに来て、最後迄黙々と専念していたのです。そして、練習後には一人居残りフリーキックの練習を延々とこなしている彼の姿がありました。彼には多くを教わり、それを人生の教訓としているのです。「何事も真剣に取り組み、尊敬される、そんな真のプロフェッショナルになりたい」と、ジーコを見ながら自分自身に言い聞かせていたものです。そして、それが私にとって最大に役だっているのです。

そして1989年、ジーコはフラメンゴの選手として引退、貴方もクラブを去りドイツへと移籍しポジションもチェンジ…

そうなのです。私は既にドイツへ渡っており、彼の引退時に立ち会えなかった事を大変残念に感じているのです。そして、バイヤー・レバークーゼンでのデビュー戦でいきなり監督に私がサイドバックでプレーするのは宝の持ち腐れだと言われ、それ以降3年間中盤でプレーをしたのです。2年目にはキャプテンを命じられました。しかし私は、未だ言葉が不十分だったので丁重にお断りさせて頂いたのです。そして3年目には、チームのキャプテンとしての使命を受け、その後バイエルン・ミュンヘンへと移籍したのです。但し、バイエルン・ミュンヘンはサイドバックとしての私と契約を要望したのです。私にとっては、ブラジル代表にサイドバックとして収集され、リズムを得る為にもこのポジションで試合に出る必要があり、結果的には最適な選択となったのです。1994年までドイツに在籍し、ブンデスリーガで優勝も出来、大変素晴らしい時期を過ごせたました。この期間、宗教にも目覚め、自分自身変化を遂げ、プレースタイル自体も変改したのです。そして1992年には、それまでのラフプレーによる数多くの警告を受けていた選手から一転して、FIFAフェアプレー賞を受賞する事が出来たのです。この全てがドイツ時代での出来事なのです。

つまり貴方は、初期の頃アンフェアーなプレイヤーで度重なる警告を受けていたと云うのは事実なのですか?

その通りです。実際に、経験不足と云うこともあり、直ぐにナーバスになり良く警告を受けていました。誰とでも簡単に熱くなっていたのです。しかし、徐々に成熟して行き、最終的には改宗して完全に変身を成し遂げたのです。

貴方の元クラブであるフラメンゴとバイヤー・レバークーゼンの現状をどの様に分析しますか?

現在、フラメンゴはレバークーゼンとはまったく異なった状況に直面しているのです。フラメンゴはあくまでも最悪な経営状態による問題なのです。世界有数のビッグクラブに成る為の条件は整っているのです。だからこそ、ジーコの話に戻るのです。彼が、現段階でこの様な「ぺピーノ(直訳:きゅうり、意味:大問題)」を背負う事が出来ないのは百も承知ですが、仮にフラメンゴがジーコに対し、自由に仕事が出来る環境を与える事が出来れば、紛れも無くこの事態は変わるのだと確信を持っているのです。フラメンゴの内部事情は大変複雑であり、困難ではあるのですが、いつの日か経営主導権をジーコの手に渡せば事態は確実に変わります。クラブのポテンシャルから考えると現状は悲惨なものなのです。バスコ・ダ・ガマはその反面、難儀なエウリコ・ミランダ〈私にのみではなく未だ数多くに未支払い状態〉会長の下、伸び続けているのです。バスコ・ダ・ガマは、フラメンゴのトレーニングセンターであったフラ・バッハを手に入れ、更にはサン・クリストヴァン地区でも拡大しつつあるのです。その期間フラメンゴは一体どの様な処置を取ったのです?この様な問題はダイレクトにピッチ内でのパフォーマンスに影響するのは当然なのです。せめてもの救いは、サポーターの熱い応援により、辛うじてチームが何とかガッツで結果を維持している事なのです。

では、バイヤー・レバークーゼンは一体どうしたのでしょうか?

バイヤーは、一年半前は大変好調で、前々シーズンには3大会に於いて決勝進出を果たしたのですが、惜しくもその全てで敗れてしまったのです。その後、バラックとゼー・ホベルトの移籍によってチームは低迷期を迎えたのです。クラブはこれを補うべく補強をせず、自ずとチーム力が低下したのです。更に、バイヤーはサポーターも限られており、伝統も余り無く、一度不調に陥るとなかなか抜け出すのが困難なのです。フラメンゴの様にサポーターの熱い応援によるバックアップが無いのです。従って、ホームゲームにもかかわらず相手サポーターがスタジアムを埋め、アウェイのような状況で常に試合をしているのです。バイヤーは昨シーズン大変困難な時期を送った訳ですが、この状況は決して普通ではないのです。更に、ヨーロッパは金銭面で現実に目覚め、以前支払っていた膨大な金額を改めたのです。クラブは薬品会社であるバイヤーから一定の金額援助を受けているのですが、昨シーズンに於いてチームが無冠に終わった事で総予算の減額に甘んじなければいけなかったのです。現在、ルーシオへ数多くのオファーが来ており、きっとクラブはこの移籍金を来年度の投資に回すのではないでしょうか。でも、バイヤーは必ず復活すると信じています。きっかけはタイトルを獲る事なのです。しっかりとした組織と経営の安定があるからこそ、絶対に蘇るのです。

貴方のキャリアに於いては、1994年のW杯優勝もあり、セレソン(代表)は特別な意味を持っているかと思います。正にセレソンはサッカー人生のクライマックスなのでしょうか?

正にセレソンに比類出来るものはありません。そして、このタイトルに勝るものはないのです。これ以外にも、バスコ・ダ・ガマで2000年に3-0から逆転して優勝したコッパ・メルコスールのタイトル等を挙げる事が出来ます。フラメンゴで1987年に優勝したコッパ・ユニオンも忘れられぬタイトルの一つです。どちらもビッグクラブでのタイトルです。バイエルン・ミュンヘンでのブンデス・リーガ制覇もあります。でも、W杯は正に感銘的なのです。何故なら、選手としてビッグクラブであるフラメンゴやバスコ・ダ・ガマ、更には海外でプレーをする事で、次に目指すのは必然的にW杯優勝なのです。この感覚はなかなか表現出来るものではなく、経験して初めて感じる事が出来るのです。そして、今日でもこのタイトルのお陰で喜びと恩恵にあずからせてもらえているのです。

でも、貴方のセレソンでの歴史はW杯に止まりません。1983年にはワールドユースで世界チャンピオン、そして1988年にはオリンピック大会で準優勝をしていますよね?

その通りです。セレソンでは良くあるケースなのです。A代表で成功を遂げた多くの選手はジュベニールとジューニオルの各世代の代表を経由しているのです。これらのタイトルを喜ばしく思えるのは、アメリカ時代にはチームがインファンチルとジュベニールのカテゴリーでは大会に参戦しておらず、出場機会に恵まれなかったからなのです。でも、ジューニオルのカテゴリーではジーコの実兄であるエドゥーが、当時このカテゴリーの代表監督であったジャイール・ペレイラに、私は才能があり両サイドバックとザゲイロ(DF)もこなせる選手なので注目するようにと助言してくれたのです。そして、ジャイール・ペレイラは1982年の末に初めて私を選抜してくれました。初代表はジューニオルの時だったのです。この年代で南米大会とワールドユースで優勝し、オリンピック南米予選で準優勝を果たしたのです。そして、1987年にはオリンピック南米予選で優勝し、1988年のソウルでのオリンピック本大会で準優勝したのです。

貴方は、バレーボールで実際に起こっているように、元サッカー選手達の「サッカー界の舞台裏」への参入をどう分析されますか?そして、「受け皿」を拡大して行く為には彼達自身の準備が足りないと思いますか?

それに関しては、実際には二つのシチュエーションを分析しなくてはいけません。先ず、元選手達がクラブ又は協会に携わる事の重要性をクラブ首脳陣達が如何に必要だと理解するかなのです。勿論、選手達も十分な準備が成されていなければいけません。最近迄は、現役を退くに当たり準備を施していた選手は実際には極少数のみでした。でも、今日ではこの状況も変わって来たのです。そして、現在ではクラブサイドが壁を作っている様にも思えます。特に経済的に安定している元選手は、その地位を利用したり、悪意を持って利害関係のみを求めてクラブ経営に携わるのではない事をクラブ首脳陣達は解っているからこそ、選手達に機会を殆ど与えないのです。彼らは自分の役割にしっかりと専念し、勿論それに値する報酬は貰う訳ですが、仕事自体に真剣に取り組むのです。あるクラブでこの様な役職に就任した元仲間選手を知っているのですが、彼はクラブがエンプレザーリオ(代理人・興行主)と強いパイプでつながっていることを知り辞めてしまったのです。ある特定エンプレザーリオの選手でなければ試合に出られないと云うのです。何とばかげた事なのでしょうか。彼はこれに同意出来ず辞任を決意したのです。正にこれが現実なのです。現在では多くの元選手達が準備を整えスタンバイ状態なのですが、クラブサイドが拒んでいるのです。これ以外にも元選手のカリスマ性の問題があるのです。サポーターが元選手を支援することに首脳陣達は恐れているのです。他のスポーツ種目に於いて成功している元選手達が存在する事を幸いに感じるのです。紛れも無くこれが我々の進み道であり、その為にも戦い続けなければならないのです。

では、貴方はある種の差別化が存在していると思われるのですか?

存在しています。元選手は長年も前から主に監督として、又、現在はエンプレザーリオとしてもクラブに参入できる様になったのです。私の場合もそうです。でもいつの日かクラブ経営者になりたいと云う願望がある事も告白します。直接クラブと深く関れる様な関係を築きたいと云う願望があるのです。特に、自分が在籍したアメリカ、又は、現会長であるエウリコ・ミランダが退き、仮にホベルト・ヂナミッテが就任し私を誘ってくれれば、バスコ・ダ・ガマでです。何故なら、監督業は権力に制限があるからなのです。ジーコを例に挙げますと、彼は自分の理想を追求するためにはチームを設立せざるを得なかったのです。もし、彼が10年前にフラメンゴで束縛されず自由に仕事が出来る環境を与えられていれば、絶対にCFZを設立していなかったと確信が持てるのです。実現していれば、きっと彼はフラメンゴ、あるいはCBF(ブラジルサッカー連盟)、そして更には南米サッカー機関の会長に就任していたのではないでしょうか。でも、残念な事に、ここで説明をした理由により、ジーコにそのような機会を与える人物は限られているのです。

引き続きこの件に付いてですが、貴方自身は引退をした時には苦境に立たされましたか?

実際に引退後、私は無性に監督になりたいと云う意欲が強かったのです。この事に関して、ホドリゴ・カルボーネ(元鹿島アントラーズ)と密に相談をしたのです。カルボーネと一緒に指導者資格受講コースを受ける寸前にまで至ったのです。でも、家族とも話し合い、監督業は自分の将来の可能性が制限されると云う結論に至り最適な選択肢ではないと感じたのです。そして現在、カルボーネとベベットを含め我々3人は94 SPORTSと命名した会社の共同出資者なのです。そして、私自身が良い監督になれたのかどうかも判りません。更には、監督業はサッカー界の組織変革を行う事は出来ず、そしてサッカーがビジネスとして成り立ち、収入も十分に得ることが出来、尚且つ常に正しい人間でいられるのだと云う事を伝えられないのです。だからこそ、考えたのです。到底クラブでは、それだけの地位に就き、それ相応の仕事をさせてもらえないのであれば、自分で会社を設立すれば良いのだと決断をしたのです。可能であればリオ市に定着し、もっと家族と共に過ごしたかったのです。監督の日々はどんなものか想像出来ますよね?遠征の連続で、家庭と離れている時間が長いのです。更には、今年のブラジル全国選手権では既に20人以上の監督が解雇になっているのです。インスタビリティー(不安定)の問題もあるのです。このエンプレザーリオの道を選択した事で、首脳陣達と密に関係し、クラブの「裏舞台」をもっと深く知る事が出来るのだと確信を持っているのです。経験を積む事で将来には理想の職に就く事が可能なのです。ジーコの様に、いつの日か鹿島アントラーズが私と契約してくれる事を信じているのです。その可能性は必ずあるのです。何故ならクラブはとても真剣な人材達で経営されており、そして私自身、ジーコと現在ACミランに在籍しているレオナルド同様、強い絆で結ばれていると確信しているのです。数多くのタイトルも獲る事が出来ました。従って、私はサッカーに貢献したいのです。私はサッカー選手として培った経験と未だ学び続けている教えを有効に役立てたいのです。その為には、今後スポーツマーケティングも勉強したいと思っているのです。

現実、貴方のエンプレザーリオとしての仕事はどうなのですか?

具体的な名前は挙げませんが、フランクに言わせてもらいますと、中には10%の権利を行使する時のみ出現するエンプレザーリオが存在するのです。我々はその様にはなりたくないのです。我々は、選手の家族も含め、法律上の相談、選手のマーケティング、投資に関するサポート、そして引退後の人生設計まで支援出来る体制を創っているのです。例えば、現在ではアチルソン選手を抱えているのですが、10年後には彼はいったい何をやれば良いのでしょうか?だからこそ、彼へのサポートを考えているのです。この様な構想はブラジルでは新しく、手間の掛かる大変な仕事だとは思うのですが、正にここが他との相違点なのです。私の様に、選手が海外へと移籍していった場合、ブラジル国内にあらゆる要件を未解決のまま残して行ってしまうのです。更には、突然大金を手にし、何に投資したら良いのか解らないのです。我々はトータルサポートをする事で、彼達に安心感を与えてあげられるのです。現時点ではお陰様で上手くいっています。既にドイツにも、選手が新たな現実によりスムーズに順応できる様、居住関係や車、又は言葉の勉強などの生活に関わる全ての面で、サポートする会社があるのです。スペインでもベベットがその体制を整える予定があり、更には日本でも同様な事が出来ればと思っているのです。

将来へのプランに付いて語ってくれませんか?

ええ。94 SPORTSは、来年のアメリカ設立100周年に向けてのプロジェクトがあります。現在、出資企業と若しくは協力してくれる元選手達を募っており、5年計画でクラブの建て直しを図るのです。既に、アメリカの会長とも会議を行い、大変興味を示してくれているのです。ジーコがいつの日かフラメンゴでやろうとしている様に、クラブが私に行動の自由を与えてくれれば、目標は献身的な業務を展開する事なのです。クラブからは特に何も要求する気は全く無く、私は唯単に、インファンチルからプロチームまでを任せて貰いたいだけなのです。アメリカサポーターをKOMBI(VWのワンボックス車)に例えるジョークもありますが、実際にはファン層が厚く多くの人達に親しまれているのです。過去、サンパウロに敗退はしたもの、ブラジル全国選手権で準決勝進出を果たした時の様にコンペティチヴなチームを編成すれば、サポーターはスタジアムへ足を運んでくれるのです。私はアメリカに13歳から19歳迄在籍しました。そして、私が唯一クラブでプレーをしたW杯優勝経験者なのです。この様な経緯からも皆さんの愛情を感じるのです。私自身、クラブとの強い繋がりがあり、是非このプロジェクトを実現したいのです。

ところでジョルジーニョ、社会福祉のプロジェクトは如何ですか?

私が生まれ育った、グァダルッペを忘れる訳にはいかないのです。感謝の気持溢れんばかりです。マドゥレイラでサッカーを始めたのですが、地元でサッカー少年へと化したのです。そして、常に地元住民へ貢献をしたいと云う願望があったのです。私は少年時代、ドラッグや家庭破滅など、友達が色々困難な問題に巻き込まれる様を目の当たりにしながら過ごし、常に何かアクションを起こしたいと云う気持ちで一杯でした。でも、チャンスが無かったのです。この件に関しては、ドイツとそして特に日本での4年に渡る素晴らしい契約が出来たお陰で、初めて真剣に考える事が出来たのです。私は、エドゥーに心から感謝をしているのだと云う事も強調したいのです。私の人生の節目に於いて、彼は度々手助けをしてくれたのです。彼が、私のサッカー人生そのものを変えたと言っても決して過言ではありません。私は、アメリカでジュベニールからジューニオルに上がった時に解雇通告を受ける予定だったのです。1982年の事です。エドゥーが丁度ジューニオルの監督に就任し、自分の目で確かめない限り誰も解雇にはさせないのだと言い、選手を一人一人チェックしたのです。チームには既に4選手、ドナート、ジョシマール、マルコ・アントニオ、ノルベルトと言う能力の高いサイドバックがおり、私にはチャンスが巡って来ない事も知っていたのです。でも彼は、私には多才さがあると判断したのです。そして、月日と共に他の選手達は解雇され、私だけが残ったのです。そして、その年の中旬にエドゥーはプロチームの監督へ昇格し、僅か3試合目には私自身もプロチームへ引き上げられたのです。私は、6ヶ月と云う短期間内に解雇寸前からプロチームの一員へとなったのです。そして、年末にはジュニオーレス代表に収集され、バスコ・ダ・ガマと1984年には移籍を決意したフラメンゴからオファーが届いたのです。それから10年以上経過し、再びエドゥーが登場したのです。アルシンドが鹿島アントラーズからヴェルディ川崎へ移籍をするとの事で、エドゥーが私を獲るように頼んでくれたのです。その後、フォワードのマジーニョ選手とも契約し、結果を残す事が出来たのです。その当時、ドイツでプレーをしていたのですが、私自身も移籍を希望していた矢先の出来事だったのです。

生活面での安定を得る事が出来、そして経済的にも成り立ち、プロジェクトに取り組む余裕が生じた訳ですね。

その通りです。そこで初めて地元住民の役に立てたのです。最初は、グァダルッペの空き地に手を加え、柵を作る予定でした。しかし、友人や兄弟と色々話し合った結果、しっかりとしたプロフェッショナルなプロジェクトにする事に決意したのです。それが、インスチツット「ボーラプラフレンテ(前にボールを)」なのです。1150平方メートルの敷地に、セミ・オフィシャルのグランドに変えられる人工芝のコートが3面あり、施設内には教室などを数多く設け、フットサル、空手、バレーボール、課外授業、文化活動、パソコン授業、英語、専門学科などを教えているのです。去年は1300名の子供達を預かっていたのですが、現在新たに1000名を目処に再登録を行っている最中です。そして、ドイツでは「ATLETAS DE FUTEBOL PROFISSIONAL AJUDAM CRIANCAS(プロサッカー選手達は子供達を支援する)」と言う名称のファンデーション(基金・財団・社会事業団)の設立準備を行っております。いわゆる、予防活動の一貫なのです。これが、神様が私に授けてくれた全てに対して報いる手段なのです。この聖書の教えを私は常に自分の人生に反映させながら生きているのです。

ジョルジーニョの社会福祉事業に関してもっと詳しく知りたい方は下記のサイトをアクセス下さい。
http://www.bolaprafrente.org.br

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