インタビュー

Hortencia

[2005.03.02]

ジーコの誕生日に、もう引退して10年になる“女王”に特別なインタビューをする事ができた。彼女の、不可能を可能にする、見ごたえのあるプレーは多くの人の記憶に残る。

あの小さな体でエネルギッシュに動き回り、世界各国の体育館で観衆を魅了し、オレンジ色のボールが、手にくっついた様に離なさないあの女性を忘れることが出きるだろうか。あの髪の毛を束ねて、背番号4を付けていた彼女を誰しもが覚えているはずだ。誰がオルテンシア・デ・ファッチマ・マカーリ・オリーバを忘れているだろうか。

ジーコ直々の希望で私達(サイト)は彼女の後を追った。オルテンシアは、私達にどうやってマーケテインガーになったのか、また80年代に、あのプレイボーイのページに、タブーを破り裸体をさらけ出した時のエピソードを話してくれた。バスケットから離れて、本人にとっては言いにくいマジック・パウラとの関係も説明しようとした。

そしてポチレンダーバ出身のパウリスタは、風紀について授業をした。チャンピオンのプロフィールの一部であるそう言う部分は、いつも焦点になるもの。ありがとう、オルテンシア。おめでとう、ジーコ。

サイト・・・ オルテンシア、ジーコが私に忘れずに聞いて欲しいと言ったのは、君がテレビで司会者をした時の経験はどんなだったかと言うことなんだ。

「そうね、・・・ジーコと一緒に私も司会者になった。彼(ジーコ)はいつも遠征していたからね(笑)あのウォーリーは何処?と言うゲームを知っている?私達はそれを“ジーコは何処にいるの?”って聞いていた(笑) でも彼は決して
現れなかった。真面目に言うとジーコは日本へ行ったり来たりで凄く多忙な人。でも、何度も会う事は出来ていました。彼と会うのはとても気持ちが良いわ。一日中収録したりとても楽しかった。 」

サイト- でもその番組はいったい何だったの?

「番組は最初ジーコだけで始まった。彼が司会者役をやってね。私が入ったのはバスケットの話が出た時から。それが結構好評だったので、番組では私をずっとジーコと一緒に出演させた。グローボでもやりました。あれはオリンピック委員会のプロダクションだった。場所はここサンパウロでしたけどね。でも彼らはそこでテレビ局を変えることした。それが間違いのモトだった。でも成功はしましたね。2年半ぐらいやったかな、ちょっと残念だった。一度、私達は中国人、日本人のファンタジーをすることになたけど、ジーコは嫌がって“私はやらないよ、”と言っていた。私だけが一人で恥をかいた訳(笑い)」

サイト- それでどうやって一人の元選手が広告業者になれた訳?

「それはね、私のマーケテイング会社はある広告会社の中にあるわけ。プロモーション、イベントなどで広告以外は何でもやっています。」

スポーツ・マーケテイングという事?

「私達は時折、スポーツをテーマに選ぶときもあります。プロモーションとかイベントを引き起こすためにね。でもだからといってスポーツ・マーケテイングをしているとは言えません。」

君はその世界に1997年に引退してから入ったのだっけ?

「私が引退したのは1996年だった。アトランタ・オリンピックでの試合が最後だった。そこで、何人かの友人たちが私に営業を進めて、私はその担当者になったわけ。それもその方がスポンサーを誘致するのに楽だったし。私は、凄く成功したチームを持つことが出来た。世界クラブ選手権でもチャンピオンになり、ブラジル選手権も、南米選手権も取りました。その後でフルミネンセに行き、パラナにも行き、などなど。でも凄く疲れることだった。私には時間が無かった。そんな時にフィッシェル・アメリカと言う広告会社から呼ばれてスポーツ・マーケテイング部門を開設すると言うので、私は入ったわけです。」

ではそれから君はフィッシェル専属と言う事になった訳ですか?

「そうです。2年半くらいかな。その後こんどはエウロ(カリーロ・パルトーレ・エウロRSCG)グループのオファーを受けて。多国籍企業で世界でも5番目ぐらいに通信では強力な会社で、それが別会社を作ったのです。やる事はあまり変わっていなかった。 」

君は現役の頃からこの業界に興味を持っていたのですか?

「いいえ。後になっていろいろ覚えました。私は自分のイメージを管理していましたけどね。自分のマーケテイングとか。実質的な経験はありましたね。私のチームはみんなマーケテイング専攻大卒です。私だけがそうじゃないけど勉強して、勉強して段々好きになってしまった。それでこれを専門にやり始めたら、バスケットは辞めると決心したのです。遠征している暇が無かったからね。私の子供たちも小さかったし、それで会社に専念する事にしたのです。」

ジーコがやっているようなあっちだこっちだという生活は出来なかったのですね?

「ああ・・・でも彼の場合は子供たちがもう大きいから・・・そのうちに子供たちが、お父さんの面倒を見るようになりますよ。(笑い)私が選手を辞めた時は、私の子供はまだ生まれたばかりでした。だからスポーツの仕事は続けられなかった。指導者にしてもどこかの役員にしてもね。だから会社に集中するようにしたの。今日、私はもうバスケットから完全に離れてしまっているわ。」

ジーコは選手を引退した後、自分のチームを作った。けど、協会や役員などと議論しながら大変ではあるようだけど、君の場合もそんな事があったかな?それともバスケットの世界ではもっと静かだった?

「それはありましたね。ああ言う所には首を突っ込みたくなかったね。政治的な事について心配などしたくなかった。実入りが少なくたって私は気楽でいたかったしね。生活での質を求めていました。わかります?今は私の会社で、私の思うように仕事をしている。何時に出勤して何時に帰る、これはわたしの自由。縛られることはない。私は会社に仕事を持ってくるけど、一日中デスクに座っている必要もないです。23年間スポーツウーマンで遠征ばかりしていた。旅行鞄をまとめたり解いたりの繰り返し。代表だけでも20年やりましたから。それをしたくなかった。今は毎週、週末があります。ある日、オスカールがベンチにいてプレーしたくて困っているのを見たことがあります。それは私にはもう出来なかった。 」

君はもうバスケットはやらないと言うけど、それは何故?

「もう十分やったと言う感じ。貴方は、私の決断を色々な方面から理解してくれても良いと思うわ。懐かしくなるとみんなは思うようだけど、私はそうはならないと思う。私はバスケットを一つの職業と考えていた。純粋に競争して、何かを得ると言う事かな。今、私は何のためにバスケットをやるの?遊びでは中々出来ない、私にはいつも真剣なものだったから。」

バスケットは君に取ってそれほど尊いもの?

「正にその通りよ。遊びだったら、バレーボールか、サッカーか、テニスかゴルフまで私はやりますよ。でもバスケットは私に取って宗教、職業で遊ぶわけには行かないの。コートに入るなら、目的を持たなければいけないの。それは何?何か値するものがあるの?無い、それじゃあ喜びも無いでしょう。」

それでも家の隅っこに隠れたセットが有ってたまにボールを入れているんじゃないの?

「あのね、子供たちがやり始めて私を誘うの、そうすると問題ね。例えばビーチにいるとしたらそこにはセットなど無いから、彼らは近くに家の何か代わりになるものを探すわけ、凄いでしょう?まあ、私も無理を押し通すのは止めないといけないね。でも私には、楽しさも湧かないと思うけど。子供たちがバスケットをしているのを見ていると笑いたくなってしまうのだけど、何故かと言うと私そっくりなやり方をするから・・・9歳になるジョアン・ヴィートルなんて驚かされるわ。」

そうですか、それじゃバスケットは君にとって十分な訳ですね。

「そう、私はもうやり遂げたと言う感じです。あれ以上私に得るものは有ったかしら?バスケットは私に必要とするものを全て与えてくれたと思います。世界チャンピオンになったし、最優秀選手にも選ばれたし、有名人ホールにも居ます。(オルテンシアはブラジル人スポーツウーマンとして初めてアメリカ、スプリングフィールドの“ファーマー・ホール”に登場した)世界の最優秀サイドであるし、オリンピックの決勝にも出場したし、南米チャンピオン、パン・アメリカン・チャンピオンです。まだ何か欲しい?私が辞めたのは怪我をしたからでも、年を取ったからでもまだ何かタイトルを取りたいからとかの理由ではないのです。35歳で一番良いときに辞めました。36歳でアトランタ・オリンピックだけ戻りました。誰も止めなかったけど、私の希望だった。私をWNBAに連れて行きたい人もいましたけど、私は行きたくなかった。もう十分だったし妊娠しましたからね!(笑い) 」

パウラとの関係での出来事だけど、ライバルと言うのはコートの中だけでのことですか?

「そうね、初めの内はコートの外でもあったけど、お互い若かったせいもあるわね。私はパウラをいつも尊敬していて、そうでもなかったけど。彼女だって本当はそうじゃなくて、本人同士より家族の方が、サポーターとか報道関係がそう言うニュアンスを出していたみたいね。新聞なんかでも言った言わないなどの記事が出ていたし。時間がたつに連れて私達も大人になり、お互いを良く知るようになってから自然に消滅した感じね。」

現在、君たちはたまには話とかするんですか?

「それは話しますよ。彼女は市役所で働いています。ちょいちょいイベントに招待したり、招待されたりで、以前より話す機会が多くなっているみたいね。」 

ちょっと話を変えて思い出すのだけど、1988年にプレイボーイに君が載った。ブラジルでスポーツウーマンがヌードになったのは君が初めてだって言うけど?

「そう。だからこそ私はしたかった・・・一つの挑戦でもあった。」 

あの当時の評判はどうでしたか?写真のために君を随分はやし立てたでしょう。 

「そうでもないわ。私の後にはたくさんの選手たちが出たわ。でもそれは気持ち的にもよると思う、私はそのリミットを越えないように抑えていたし、いつも私の性格は強かったからね。問題は“ゼロ”でした。私はとても楽しかった、うぬぼれじゃないしね。挑戦する事、タブーを破ること、お金を稼ぐこと、それと女性選手は“男っぽい”とか“レズっぽい”とか言うのじゃなくて、女性らしい綺麗な体をしていることを見せる、それらが目的でした。私がマリーリア・ガブリエラに呼ばれた時、彼女にもヌードを進めた。彼女はジャーナリズムへ行って、私はスポーツを選んだ。マリリアみたいな綺麗で人柄も良くて心の厚い女性を疑問視する必要などないと思う。 」 

それじゃ、おしまいになるけど、コートで最高の感動をしたのを話して貰えますか?

「そうね、私は三つの事を選びます。最も難しいメダル、最も感動的で、もっとも大切な場面。最も難しかったのはアトランタでの決勝で銀メダルを取った時でした。私はあの時始めの子供を産んだばかりで、体調は万全ではなかった。-70%ぐらいだったかな- 私は、普段から凄く自分に厳しく要求するタイプだったからあの状況でプレーするのはとても困難だった。試合前3ヶ月しか無かったからね。最も感動したのは、間違いなくキューバでパンアメリカンが有って、フィーデル・カストロからメダルを受け取った時です。あの時はブラジル中が見て、応援して、歓喜して泣いた。そして一番大切な場面は1994年にオーストラリアで行われた世界選手権の時。大会はアメリカで開催されるワールドカップに近かった。ブラジルはそのためサッカーに焦点が合わされていた。それは普通のことでしょう。だから私達が世界選手権を戦う事など殆どが知らなかった。それで私達はチャンピオンになったのだけど、ブラジルでは夜明けの時間だったし、国民は冷えていて感動なんてなかったみたい。バンデイランテス局が実況中継しても殆ど見ていなかったのね。 」

オルテンシア、まとめて見よう。焦点と規律は必要だよね?

「それはね・・・混ぜてはいけないと思う。色んな事をしてみても、そう良いものは生まれてこない。人生に何かを設定しなければいけないと思う。私は長い間、バスケットだった。その後、家族、勉強、恋人。と言うか、私の経歴に巻き込まれた男性は早々と踊らされていたようだけど!(笑)

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