インタビュー

Fagner(ファグネル)

[2003.12.29]

普通インタビューの冒頭にはインタビューされる人のことが紹介されるものである。セアレンセ(ブラジル東北部のセアラー州出身者のこと)の歌手で作詞家でもあるライムンド・ファグネル、54歳とのインタビューにおいてもその様にしようと考えたが、今回は違うやり方の方が良いと思った。2003年にジーコサッカーセンターで初めて彼に出会い、ジーコの手助けもあって、今回は電話でやっとインタビューが出きることになった。

ファグネルとの会話は約1時間に及んだ。彼は新しい仕事のこと、サッカーとの関係、それにジーコとの友好関係について細かく話してくれた。大変な量の話だった。30年近くにもなる音楽活動にたくさんの仲間達。そしてインタビューの最後にファグネルは一言記録に残して欲しいと言った。ブラジル音楽界で巨匠クラスに入るアーチストの感動こもった言葉は、他の何にも負けないくらい価値のあるものだった。

“兄弟がいない私にはジーコは唯一の兄弟です。いつもたくさんの友達がいたけれど私の家族はアントウーネスです。誰からの支えも受けられ、彼らの大きな優しさも授かっています。私を支えてくれた兄弟ジーコには心からお礼を言いたい。ここセアラーの家族の血を置いて新しい人生に出た私にとって、ジーコはいつも心配してくれた友人であり仲間だった。常に協力する姿勢を見せてくれていた。私が言いたかったのはこの事です。”             

あなたの生活にどうやって音楽が入ったのですか?

私の父はレバノンのラジオ歌手でしたので、私の母も親戚の者まで家族みんなが歌っていました。私が6歳の時の母の日に、セアラー・ラジオ・クラブがやっていたコンクールに出て賞を取りました。そして70年代始めまでギターをやっていました。そこで“セアラーの人達”と呼ばれていた一つの文化運動と出会ったのです。私は荷物をまとめてブラジリアへ出ました。

そこで建築を勉強しながら、ある知名度の高い若者の音楽フェステイバルでも賞を取りました。その後、リオに来てから暫く大変生活が苦しかったこともありました。でも1972年にエリス・レジーナが私の曲を4曲選んでくれたのです。彼女は新人を表に出すのを手がけていて、その白羽の矢が私に当たりました。あの頃は彼女の家にも住んだことがあります。それにロベルト・カルロス(ブラジル歌謡界の有名歌手)も録音してくれました。その頃詩人カピナンの家で元ボタフォゴ選手のアフォンシーニョを知りました。

それでその時からサッカーでの強い認識が芽吹いた訳ですね。だけどあなたは何処かのクラブでプレイするまでに成りましたか?                   

セアラーでもアマチュアの域でしたけどサッカーをやっていました。サッカー界に接近したのはリオに住むようになってからかな。今言ったようにアフォンシーニョと知り合いになったのは1974年だけど、しまいには部屋を分け合うくらい仲良くなった。私が初めてのレコードを発表した頃で、すぐ後でフィリップ社との契約を解除してしまい、ブラブラしている時にサッカーをやろうと思った。ネイ・コンセイッソンとパウリーニョ・ダ・ビオラのチームがあり、一緒に遠征にも出かけた。でも私は内気だったし、貧弱な体だった。他の人達は大変上手かったね。それでも少しずつ自信が持てるようになって、右サイドバックでプレイしていて、のちに左に回った。凄く走っていたよ。中盤にはアフォンシーニョやネイ・コンセイッソンがいた。彼らはボール扱いが上手かった。選手とアーチストの混成チームだった。                                   

ジーコとはどうやってしりあったのですか?                  

それはあの“悪戯者”ジェラウドが亡くなって直ぐ後だった。彼は私と同じビルに住んでいたこともあってジーコと出会った。直ぐに友情が芽生えた。実際にはジェラウドもピンチーニョも私の兄弟みたいに仲良しだったのです。でもジーコとの友情は何故だかもっと知られていたね。私達は兄弟関係になって、私もサッカー界の中でもっと知られるようになった。

面白い話があるよ。ブラジルの交差点で私はよくジーコの本当の兄弟と間違われるほどだった。1982年には友情は完全に根を張った。私はよくセレソンの合宿所に顔を出し、チームと一緒に時間を過ごすことが多かった。ブラジル・セレソンに同行できる一般人としてはブラジルで最初だったと思う。              

ジーコとそんな関係なのにあなたはフルミネンセ・ファンというのはなぜですか?(笑い) 

そう、ブラジリアに住んでいた時にはフルミネンセの試合が多く、更にはチャンピオンになるのを見た事もありファンになった。でもフラメンゴとフルミネンセの試合を観た時は正直心が揺れた。それからはジーコに乗り換えたよ。いまだにフラメンゴを応援している。ただ彼がサッカーを辞めた頃から少し興味が覚めたね。私はジーコをいつも近くで見て来た。膝の問題で苦しんでいる時も、苦難を克服して選手として偉大な活躍している時も。日本では感動と共に彼の人生を見ることも出来た。

録音されてレコードにもなった“フォーメ・ゼロ”(空腹ゼロ)キャンペーンのショーを1994年にロベルト・メネスカルと共に初めて開催した時の事、閉会式に私が出席した折、ジーコはリベリーノ率いるある選抜チームを相手に試合をしていた。リベリーノは私に日本人のチームに入ってやれと言ったが、ジーコは私がJリーグの選手じゃないから駄目だと言った事もあったよ。 

音楽では成功し波に乗っているけど、ボールを扱っても成功したと思いますか?    

音楽は私の生命でサッカーは・・きっと上手く行っていなかったと思う。いつもレコード会社とも喧嘩していたし、いつもたくさんの人達と喧嘩していた。私の初めてのレコードではシッコ、ビニシウス、エラスモやナーラに助けてもらった。若かったので色々な事が頭を揺らせていた。1972年にナーラとの初のコンサートで上手くいって、その事が私の頭を有頂天にさせ、更に色んな問題を引き起こした。そうだな、私の気質はエジムンドのそれに近いかな。(笑い)それにアフォンソにも影響されているぞ。彼は最初にパスの権利うんぬんで喧嘩を始めた選手だからね。開拓者だね。一つの事実としてジャイルジーニョ、マリーニョ・シャーガス、ジェラウド、その他みんな私の周りにいて、私の馴染んでいた環境はサッカーの仲間が多かったからスポーツ報道関係者も音楽よりもサッカーのイメージが強いみたいだ。                  

このサッカーと音楽はあなたの職業にどのように影響しましたか?      

この二つはブラジルにおいては平行して歩んでいます。ブラジル国内各地での私のコンサートではいつも草サッカーやゲームが誘致されていた。そのお陰で強い友情を保つ人達がたくさん居ます。サッカーはそういう意味で、私に取っては人々に接する方法にもなります。私をゲームに誘ってくれることにより、人とのふれあいが出来ます。特にジーコからはそういう事の大事さを教えられました。私の人生の中で一つ面白いのは、音楽はどちらかというとエリートっぽいものからスタートしているが、自分は敢えてポピュラーな仕事にもチャレンジしてきたことです。これはサッカーの世界との身近さというのも関連しているようです。そして成績が上がれば人気も出て来ます。昔の自分を裏切るくらいに君は変ったとも言われるくらい。でも音楽アーチストの中でも一番テレビドラマにも参加しているのではないかと思います。        

あなたはまたテレビドラマに復帰するとか?                 

それは本当です。今までに八か九の曲をドラマに出して来ました。例えば“コラッソン・アラード”、“ペドラ・ソブレ・ペドラ”や“チエッタ”など沢山ドラマのタイトルになる役割もしています。いつもそのような感じで参加をしてきて、今度は7時のドラマに戻ろうとしている所です。一度“トロピカレンテ”では周りが私を辞めさせようとしましたが私は生き残りました。強制的に一時休みをとらされたわけですが、今度はもっと内容の質を加えて行きます。それに中断した時間が長いなどとは思ってもいません。この期間に私は政治的にも強くなったと思うし、一人の市民としての生活を考えられるようにもなりました。従ってこの中断は良かったかなと今は思いながら戻れます。私の性格からいつも何か強いものを作って来たようだし、これからも前進するために準備は整っています。

ジーコと録音した話はどうだったのですか?ビデオクリップまで出来たとか?    

“バトウッケ・デ・プライア”というのは、彼が82年のワールドカップに行く前に私達が吹き込んだ曲です。その年のカーニバルにはとてもヒットしました。そのLPの裏面には“カント・ド・リオ”が入りました。ファンタースチコ番組でクリップを収録しましたが、その後で彼らはペラーダを仕組み、ジーコは“怪しい”からと言って参加せず、私だけやりました。その時に初めて大怪我をしてしまった。彼のいう事を聞かないでやったものなので自業自得でしたね。1981年の1月10日のことでした。本当の話はこの“カントス・ド・リオ”は私とマルチーニョ・ダ・ビーラのために作られたもので、彼と吹き込む寸前まで行きました。しかしそこで問題が生じました。マルチーニョは別のレコード会社と契約があり許可を出さなかったのです。当初は1面はジーコで裏面はマルチーニョにと考えていたのです。結局ジーコと両面吹き込むことになり、それが上手く行きました。バトウッケ・デ・プライアはいまだに我等の東北ではカーニバルに歌われています。          

最近の“パラーブラス・エ・シレンシオス”はどうですか?ラジオでは人気が有りますが。

ビデオクリップもありますよ。ラジオでも流されていますけど。それにもう1曲入ります。

“デゼンブロス”もビデオクリップが出来ています。リオのカネコンでのショウも最高でした。DVDにもなりました。現在メガのスタジオでミキシングしています。間もなく店に並ぶはずです。      

もう一度サッカーと音楽はあなたをこの仕事で合体させた。カニョテイロへの記念に作られた名曲も有りますね、そうでしょうファグネル?               

そういうことですね。サンパウロのサッカーで神話的な存在だったカニョテイロについての本が今二冊発売になったのは偶然ですね。あの頃リオは音楽の中心であって、この人物は少し影が薄くなっていましたね。私達も貰いましたが最近になってサンパウロFCが彼を想い、記念にユニホームに名前を入れていました。あのコンビネーションは良かったね、ゼッカもサッカーが好きだった。それに面白いことがある。カニョテイロはマラニョン出身でセアラーから始めて、その後にサンパウロのアイドルになった。私もゼッカもサッカー好きなのでカニョテイロと会い、マラニョンとセアラーの3人の完璧な繋がりが出来た訳です。 

そのゼッカ・ボレイロとの出会いは?                

私はいつも新人との繋がりはたくさんありました。詩と曲を合わせる関係で沢山の相手がいます。私の音楽歴を見ても分かるようにビニシウス・デ・モラエスとカズーザのように。

ゼッカが現れた時に私はマラニョンの詩を感じました。更にリズムにもある違いを感じたのです。共通点の友人であるセルジオ・ナトウレーザなどはよく私達は凄く似ていると言っていました。会わなくてはいけない相手だったようです。ある日フォルタレーザでその機会がありバッタリ会うことになりました。彼は私の相手でもあるファウスト・ニーロの友人だったのです。夜3人で出かけて夜明けまでに彼は私の演奏目録を全部歌ってしまった!あれには驚いたし凄く気分が良かった。その1週間後には 2 曲出来上がっていました。

彼にテープを1本送ると彼は詩を送ってくれてたちまち発展していきました。一緒に7つの都市も回りました。最後の方になって私達は結構量も出来ていて、それでレコードを作りました。評判も良く、発売と同時に人気も出ました。ブラジルを走り回ってショーを繰り返して来ました。2004年もあと幾つか作りたい。今度はソロでの仕事をやってみようかと考えています。

あなたは今度カメラの後ろに回ってビデオ撮影者としても活躍したいと聞いていますが、

それはどう言うことですか?( 2003年の10月にファグネルはジーコ・センターでジーコの博物館の隅々を全部記録していた。)

いつも写真や肖像に興味があって好きだった。今度はフォルタレーザに作ったスタジオのために機械を買って仕事を記録しました。作詞とかも全部記録して今ではテープ200本ぐらい保存されていますよ。色々な記録がメーキング - オフのためにいっぱいあります。組み立てがあって楽しい。それ以外に絵画も好きでやっています。    

“オロース”のプロジェクトはどうですか?

これは社会的なもので、オロースのライムンド・ファグネル財団で行われて現在ではフォルタレーザにも開けました。同時にビデオや写真などの博物館も作りこのような活動を企業家の方にも理解してもらっています。貧しい生活をする子供達を選んでいるプロジェクトで、基本的には食料、アートや文化などでテアトロや音楽学校とともに非常に素晴らしい場所です。フォルタレーザには120名ぐらいとオロースには160名の子供達が居ます。これ以上できないのはプロジェクトを維持するための税金が高いのです。ここで言いたいのはもっとこうしたプロジェクトへの理解が欲しいのです。米国との提携もあるし、アイルトン・センナのお姉さんも手伝ってくれています。コーラスもあり、音楽隊もあり、これらはあちこちから招待を受けて居ます。課題として私達は困難な人達にしてやるべき事があるということです。

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