インタビュー

ATHIRSON (アチルソン)

[2003.11.15]

当初は、ジーコ本人による、左サイドバックのアチルソン選手へのインタビューの予定でした。アチルソンは、フラメンゴでその才能を見出された選手で、現在は、膝の手術から回復中です。結果的に、ヘクレイオ・ドス・バンデイランテスにあるジーコ・サッカーセンターでの気軽で陽気な対談になりました。先ず、アチルソンはクラブ内を見学し、ジーコ・ミュージアムにも立ち寄りました。その後、ジーコとあらゆる話題に付いて語ってくれました。ジーコは会議への出席の為、途中で退席を余儀なくしたのですが、とても有意義な時を過ごす事が出来ました。アチルソンは自分のケガの苦悩の日々に関しても触れてくれました。フラメンゴでの試合数の多さが原因で、腱鞘炎が悪化してしまったのです。現在 26歳のサイドバックは、2001年にイタリアへ移籍した事を後悔しているのだとも告白し、そして次なる最大の目標は、一日でも早期復帰を果たし再度ブラジル代表でのチャンスを得ることだと明言しています。それでは、ジーコ、アチルソン、そして本サイトの記者による会談をお楽しみ下さい。

■ジーコ:ブラジル国内で素晴らしいサイドバックが多数現れる中で、貴方は絶好調でしたね。しかし、その時期にブラジル代表は監督が交代し、 2002年W杯への出場機会を失ってしまいました。あなたはこの監督交代がブラジル代表落ちの大きな原因だったと思っていますか?

アチルソン:そうですね。私はオリンピック予選と W杯予選を戦いました。しかし、あの頃、私はフラメンゴに残るか、それともユベントスへ移籍するか迷っていました。大変好調で、チームは1999年と2000年に優勝し、私はチームの得点源でもありました。今思えば、2001年1月に強引にブラジルを後にした事が誤った決断でした。しかし、あの時点ではどうしてもイタリアへ移籍をしたかったのです…

■ジーコ:でも、あなたは自分にとって最善だと思う選択をした訳…

アチルソン:一人のプロとして考えました。結論は自ずとヨーロッパなのです。でも、結果・・試合には出れませんでした。そんな日々が約 4ヶ月間続く中、ブラジル国内の選手は飛ぶ鳥をも落とす勢いで成長していました。しかし、当時からロベルト・カルロスは不動のレギュラーでああり、残りのポジション枠は僅かに一つだけだったのです。そして、現在でも左サイドバックはロベルト・カルロスの定位置です。今は復帰のみを考え、再度代表の座を奪回、又はその候補に名を連ねるよう復活をはかりたいです。

■記者:あなたは、中盤へのポジションコンバートの可能性について考えた事がありますか?

アチルソン:先ず、私が中盤でプレーする為には、代表を諦めなければなりません。素晴らしい選手が数多くおり、競うのは大変に困難なのです。カカー、アレックス、そして攻撃的なリバウドもいます。現状から言うと、サイドバックの方でプレーする方が代表選手の可能性が高いのです。

■ジーコ:でも、一つの選択肢でもあるのです。何故なら、 4-4-2又は3-5-2のシステムでもこなせるという有利な立場を確保出来るからです。ウィングバックもこなせ、ドリブルも出来、守備にも貢献出来るのです。

アチルソン:はい、一理あると思います。例えば、ロベルト・カルロスはスピードを生かし、サイドからの突破が得意です。ゴールラインまで持ち込み、シュート力もずば抜けており、更にはクロスの精度にも優れています。しかし、私にも別の特長があります。

■ジーコ:その通りです。 2002年W杯でブラジルはウィングバックを起用したとの世評に対し、今でも私は反対です。ブラジルは決してウイングバックを採用しておらず、あくまでもサイドバックで臨んだのだと思います。カフーがサイドバックに入る事で、ロベルト・カルロスが上がり、そのポジションをホッケ・ジューニオルがカバーし、逆に、カフーが上がる時は、ルーシオがサイドバックのスペースを埋めていたのです。このようなポジション微調整によって、常に中盤での展開が可能になっていたと考えるのです。

話は変わりますが、あなたの将来に付いて、今後の展望をどの様に見ていますか?

アチルソン:一日でも早い回復を最優先に考えており、 1月にはボールを使ってのメニューに取り組む予定です。そして、納得のいく欧州のクラブが見つからなければ、ブラジルのクラブに在籍し、6月まで国内大会に参戦するつもりです。去年同様、代表に復帰出来るようにしたいです。今年も代表には召集されたのですが、膝の問題が影響を及ぼしました。

■記者:あなたは、早くプレーをしたいという高ぶる気持ちを抑え、忍耐強くリハビリの日々に耐えなければならない状況を、どの様にマインド・コントロールされるのですか?ジーコは、この苦痛を良く理解していると思います・・・

アチルソン: 6ヶ月以上に渡り練習も試合もしていないという現状に、悲しくやるせない心境です。だからこそ、平静さを保つ様に自分自身に言い聞かせながら、早期回復に専念しているのです。無我夢中でやるのみです。

■記者:どうしてこれ程までに長期にわたり、ピッチから離れているのですか?

アチルソン:スペイン・リーグのベチスと移籍交渉が進んでいたのですが、ケガが原因で成立しませんでした。そして、ユベントスに戻ったものの、"監督の構想外"という事で契約解除を申し入れては来たのですが、先方自体なかなか結論を出さない状況が続いたのです。そこで、ジョルジーニョが仲裁に入ってくれ、現状打開に動いてくれたのです。弁護士の介入を依頼したのですが、問題解決までに約 2ヶ月間も要しました。

■ジーコ:ところで、膝のケガの原因は何だったのですか?

アチルソン: 4月からフラメンゴでケガを抱えながらも、試合に出場していました。何が何でもチームに貢献したくて試合に出続けたことで、腱鞘炎を治療する時間が無く、さらに悪化していったのです。"いずれ痛みは取れる"と思っていたのです。そして、6月に検査した時には思っていたよりも重症だったのです。フラメンゴ、ブラジル代表のドクターのジョゼー・ルイス・フンコと相談したところ、炎症を起こしている腱の浄化治療を勧めてくれました。現時点では、しっかりとメニューに基づいて、焦らずにリハビリに専念しております。

■ジーコ:ケガをしていながらプレーした事が悪影響を及ぼしたのですね。

アチルソン:疑いの余地はありません。痛みを堪えながらプレーをしていたので、思うように実力を発揮出来ませんでした。殆ど練習もせず、エアロバイクで体力の維持はしていたのですが、それは練習と同じではありません。試合に出られるように練習で温存されていましたが、それでも試合では痛みが強くてまともに歩けない状態でした。最後には、試合で耐えられるように抗炎鎮痛剤を呑んでいました。

■ジーコ:その通りだよ、アチルソン。コッパ・ド・ブラジルの試合で貴方を観た記憶が蘇えりましたよ。フラメンゴと代表の主要選手であることからも、貴方にはベストが要求されているのです。今日ではベスト・コンディションでなければ、良い仕事は出来ません。責任が重すぎるのです。

アチルソン:その事で批判されたのも事実です。マスコミ自体、私の抱えている問題を知っていながらも、活躍が出来ず不調であるかのように取り上げました。クラブ側はなかなかこの問題を解決しようともせず、結局、私自身のプロ生命に損害を来す羽目になったのです。もし、この問題にきちんと対応できていれば、ベチスの一員としてヨーロッパでプレーをしており、代表も視野にいれる事が出来ていたかもしれません。しかし、結果的には、プレー継続てを余儀なくされました。今では、保有権(パス)を取得する事が出来たので、今後は同じ過ちを繰り返さないように慎重にクラブ探しをしたいのです。

■ジーコ:現在、ヨーロッパでの活躍は代表への近道ともいえるのかも知れません。

アチルソン:はい。私の意向は、先ず復帰を果たし、試合に出場出来るチームを選び、代表への復活を目指すことです。でも、決してユベントスの様に、監督の構想から外されるチームに行くつもりはありません。

■ジーコ:ちょっと、過去に触れて見たいと思います。アチルソン、あなたのサッカーとの出会いは何ですか?

アチルソン:ジーコ、勿論あなたは憶えていないでしょうが、サッカーを始めた頃から間接的ではありますが、あなたと多少ながら縁があったのですよ。フラメンゴは、ウルカのフォルテ(要塞)・サンジョアンで練習をしており、ジーコとフラメンゴのファンである私は、見逃したくはありませんでした。サッカー選手を夢見て、私はウルカのサッカースクールで練習していました。父が軍人だったので、フォルテ(要塞)・サンジョアン内に住んでいたのです。後には、リオ・コンプリードへ引っ越したのですが、その頃には既にフラメンゴでフットサルとサッカーをやっていました。ガヴェアの下部組織で徐々に昇格していきましたが、当時は左ウイングのポジションでした。ミリン(ジュニア)の時に監督に首にされそうになりました。チームのレギュラーだったのですが、新しい選手が加入し、いきなり私は 4番目の左ウィングにされたのです。その時、担当者のトニーニョ・バホーゾが、翌年には私は解雇されそうなので、"サイドバックでの可能性を考えたい"と言ってくれたのです。そして、テストを受け、合格し、サイドバックの道を歩み始めた訳です。そして、ジュベニール(ユース)での1年目にマルコス・パケターの後押しもあり、いち早くジュニオーレスへの昇格を果たしました。州大会決勝戦前日にレオナルドが草サッカーに参加した事で出場停止処分を強いられたからです。そこで、彼は私を抜擢してくれました。しっかりとそのチャンスを生かしたのですが、実力の差は歴然でしたね。

■ジーコ:当時、貴方は 16歳でしたね!

アチルソン:そうです。そして、 1996年にプロになりました。フラメンゴがなかなか勝てなくて、変不調に陥っている時期に、あなたが声を掛けてくれたのです。練習後に、あなたと話をする為にジーコ・サッカー・センターを訪れました。そして貴方は、「アチルソン、サイドバックでは、攻撃面に対するこだわりを捨てなさい。貴方は能力の高い選手だから、フラメンゴの好不調に関わらず、自分の役割をしっかりと果たしなさい」とアドバイスをしてくれました。ジーコの大ファンだった私は、初めてこの時に本人と話が出来たのです。私は幸せな気持ちでその場を後にし、父に話しました。あの日から、私は自分の考えを改めました。元々、左ウィングの選手だった私にとっては、大変難しい事でした。

■ジーコ:あくまでも評価の問題です。監督の最大のメリットは、選手がチームの為に貢献できる長所の評価が出来ることです。仮に、選手が攻撃面で 80%の力を発揮出来るのであれば、それを有効に活用する為のサポート体制を整えることが出来るのです。1981年のフラメンゴでのジューニオルがそうでした。彼が攻撃に参加出来るようにモーゼルとアンドラーデがサポートしていました。だからこそ、あの時に私は、貴方がチーム内で直面している苦悩を断ち切れる様にアドバイスしたのです。

アチルソン:実際、その通りになったのです。その後、ブラジル全国選手権が開幕し、同時にカルリンニョスが就任しました。そして彼は、ジョルジーニョを私のカバーリングに指名しました。守備へのポジショニングを修正し、攻守のバランスを良くする事で、我々は 2?3タイトル獲れたのです。

(この時点で、ジーコは、アチルソンと挨拶をし、会議へと向かったのですが、インタビューはその後も続きました。)

■記者: 1998年に、あなたはフラメンゴからサントスへ移籍をされました。後に、サポーターはあなたが成長して戻って来たことを実感するのですが・・・。いったい、何がそうさせたのですか?

アチルソン:その頃、ちょっとケガ気味でした。膝に問題を抱えており、思うように自分の実力を発揮出来ずにいたのです。そして、ゼー・ホベルトがポジションを補強するために移籍して来た事で、クレーベル・レイテ(会長)は私に対してサントスとの移籍交渉の意向を示しました。私は、プロとしてグランド内外に於いて大変良い選択肢だと判断しました。ナルシーゾ、ゼッチ、そしてパルメイラスとフルミネンセでもプレーした経験のある攻撃的 MFのジョルジーニョから多くを学び、更に、レオン監督は私に安心感と落ち着きを与えてくれました。彼は、私を使用してくれ、プロとしての神髄を伝授してくれたのです。それまで、フラメンゴでは、一勝すればヒーローのなり、一敗すれば悪役へと転落する事の繰り返しでしたからね。だからこそ、サントスでは練習に必至で打ち込み、更に練習後には、居残りでクロスの練習とフィジカル面でのレベルアップを図りました。そして、フラメンゴに戻った時には、既に多くのノウハウと経験を得ており、更に自分のサッカーを成長させたいという強い気持ちを持つことが出来ました。サントスで、カルリンニョスや、前述のトニーニョ・バホーゾの様なプロフェッショナルに出会う事で、自分のサッカー人生に於いて最良な時を過ごせたといっても決して過言ではありません。

■記者:レオンはどの様な過程において重要でしたか?

アチルソン:彼は、私がどの様な行動を採るべきかを指導し、導いてくれた人物です。彼のみでなく、代表でのルシェンブルゴ監督もそうでした。タクチクス(戦術)面、いわゆるポジショニングに関しての教えです。彼達二人は、カルリンニョスも含め、今日までの自分にとって最大なる恩師達です。

■記者:あなたは、ファンでありプレーヤーであるという立場を、どのように考えていますか?

アチルソン:そうですね。先ずフラメンゴという組織を考えると、現在クラブが直面している状況は大変悲観的なものです。1サポーターとしてはフラメンゴがクルゼイロの様な躍進を遂げ、素晴らしい選手達に恵まれ、なおかつ、タイトルに絡むことが出来る監督に指揮を採って欲しいのです。でも現実は違い、気持ちとは裏腹に、借金地獄のクラブの有様を目の当たりにしています。私自身、未だに支払ってもらえておりません。でも、サポーターとしての熱き心は別なのです。私の魂は常にフーブロ・ネーグロ(フラメンゴ)です。フラメンゴへ戻って来て欲しいとの意向を示してくれるファンに出会うと、私の功績が認められているのだと実感でき、大変嬉しくなります。そして、実際にいつの日かまたフラメンゴへ戻られたらと思っています。でも、それ以上に、先ずクラブに現状打開をはかって欲しいのです。フラメンゴは、約3500万人のサポーターに支えられており、彼ら全員が苦しんでいる現実を考えると胸が締め付けられる思いで一杯です。なかには食事まで制限してスタジアムへ応援に駆けつけるサポーターがいるのです。彼らのフラメンゴへの愛情の表現を、私はスタンドで目の当たりにしてきました。チームの現実に私達は大変感傷的にならざるを得ません。フラメンゴがこの様な事態にまで陥っていることは信じ難い事実なのですから…

■記者:あなたは、元プレーヤーがクラブ経営者に就任することをどの様に思いますか?

アチルソン:フラメンゴに関して言いますと、紛れもなくクラブの顔として認知され、なおかつ、同化出来る人物が要求されているのだと思います。更には、権限を自由に行使できる立場でなければいけません。財も名誉も既に築いており、私利私欲を必要とせず、献身的にクラブの為に尽くすことが出来る人物が必要です。そして、何をすべきかも熟知していなければなりません。あくまでも理想ですが、 70年代の様な、完全に白紙の状態でジーコが就任すれば、フラメンゴの現状は確実に一変すると確信が持てるのです。正に、フラメンゴはジーコ、そしてヴァスコ・ダ・ガマはホベルト・ヂナミッテを受け入れなければいけません。そして、その為には彼達が会長選に参戦する必要性はあり得ないのです。

■記者:貴方は、ジーコのフラメンゴ時代の印象をどの様に記憶していますか?

アチルソン:満杯のマラカナン・スタジアムで、偉大な選手達から成る最強軍団と共にトロフィーを掲げながらウイニングランを行う細身のジーコの姿が記憶に残っています。あのタイトルの数々、そしてそれに伴う感動です。 81年の躍進は映像のみですが、87年のブラジル全国選手権は鮮明に記憶に残っています。

■記者:それでは、この談話を終えるに当たり、あなたはオフの時間帯には何をしているのか教えて下さい?

アチルソン:私はバレーボールが好きです。ビーチバレーも普通のバレーボールも自慢ではありませんが、結構上手い方だと自負しております。高校では、"フラメンゴでサッカーをやっていた事"と"ケガをしたくない事"から、余暇にサッカーをやるのは好みませんでした。でも、バレーボールは大好きでした。現在でも、常にバレーボール代表の活躍を見過ごさない様にしており、チャンスがあれば直接会場に足を運び観戦するようにしています。ブラジルがビーチバレーで常時活躍している姿が観られるのも素晴らしい事ですね。そして、バルナルヂーニョという人物は特別な監督でもあります。ブラジルでは誰しもが少なからず監督気取りであり、ベルナルヂーニョ自身のサッカーに対する意見も大変興味深く、心惹かれるものがあると思います。

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