ジャパンコネクション

パラリンピック競技の普及

[2004.09.28]

アテネで開催中のパラリンピック大会に対し、こちら日本での大いなる興奮とブラジルにおいての幅広い普及が見受けられることを喜ばしく感じております。既に11回表彰台を体験している陸上のアードリア・ドス・サントス選手や、今大会だけで6個の金メダルを獲得している水泳のクロドアウド・シウヴァ選手などの名前が国民の間で口々に語られつつあるのです。そして、テレビが競技を放映し、新聞各紙が大々的に取り上げいることが私を嬉しくさせてくれます。ブラジルにおいてのパラリンピック競技の発展に自分自身が携わった事実を誇りに感じており、このテーマに関しては躊躇せずに語ることが出来ます。

全ては1970年に、フランスのパリで開催されたイベントに、ワールドカップで活躍したブラジル人名選手達と共に招待されてフットサルの試合に出場したことに由来します。私はその時点ではまだ若手選手でしたが、サッカーの世界で知り合った数多くの傑出した友人達である、ニェウセン、フレヂ、パウロ・セーザル・カジュー達と一緒でした。フラメンゴとオリンピック代表で共に私とプレーをしたフレヂはアドバイザーのような存在でもありました。

実際には、ブラジルへ帰国後にこのグループにジェルソンが加わり、Sadef(Sociedade Amigos do Deficiente Fisico - 身体障害者友の会)の伝統的なアマチュア・フットサルの初代チームが編成されたのです。当時の責任者はジョゼー・ゴメス・ブランコ氏であり、彼は現在でも組織の会長を務めています。その時点では私はまだ知りませんでしたが、ペラーダ(草サッカー)に参加しに出向いたのが、Sadefへの資金を募る目的の為への選手達の会合だったのです。初回は1970年初頭に開催され、徐々にイベントは賛同者を得ながら規模を増し、いつしかリオ・デ・ジャネイロのクラブに在籍する選手達とフットサル選手達により編成されたチームが四つ程になっていたのです。こうして、私は更にこの件に没頭して行きました。

ジョゼー・ゴメス・ブランコ氏と親交を緊密化することで、彼の真面目な人間性と保護すべき大義名分と出会ったのです。それ以来、Sadefの全ての活動に参加しながら貢献できるように努めました。遠征中または怪我を除いては、殆んどの試合に出場したのです。

そして、私が1990年にスポーツ庁長官に就任した直後に、先ず執った政策がブランコ氏を政府の体制内に招致することでした。スポーツ関連の障害者支援部署を設けたのです。それ以前は、彼等がスポーツを実践する環境が整備されていませんでした。その僅か2年前、即ち第一回パラリンピック開催から28年後にブラジルは初めて最低限の状況下にて大会出場が果たせたのです。いかに非常識であるかが想像出来るかと思います。しかも、政府の支援を得ることが出来ずにです。

このような不合理を正すために、ブラジルパラリンピック委員会の設立に向けての第一歩を踏んだのです。ブランコ自身も各方面で会議を行い、5年後にブラジルパラリンピック委員会設立の夢が現実化したことは、彼の功績が大なのです。我々は苦闘の末に、1992年にブラジルはバルセロナ大会でパラリンピック史上においての好成績を残すべく貢献が出来たかのように思います。

私の任期で育み、実現化した法令は既に宝くじの一部をパラリンピック競技への支援金として予定されていました。だからこそ、Agnelo/Piva法令が実践された瞬間を私は使命達成感と共に見届けました。

残念ながら、現在Sadefは財政危機により、パラリンピック競技へは専念しておりません。今日では身障者達への支援の提供を主としております。援助または訪問したい方はリオ・デ・ジャネイロ市のAna Neri通り969番地所在の施設を訪問するか、または021-2241-0063までお電話下さい。協力方法の詳細を教えてくれます。

私は、メダル獲得で日々我々を喜ばせてくれるアテネでのブラジルのみではなく、日常を闘う障害を抱えている身障者のブラジル国民一人一人とSadefでのブランコ氏のような献身さを今後も常に応援し続けます。

…ということで、ウン・グランデ・アブラーソ!
それでは皆さん、また来週!

ジーコ直筆サイン

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