ジャパンコネクション

永遠なる祭り

[2004.02.24]

今週のこのジャパン・コネクションでは、いったん、サッカーから離れて、私も含めブラジル国民のもう一つのパッション(情熱)である「カーニバル」について語りたいと思います。

サッカーでは、自分なりに歴史を築き、「赤と黒」のフラメンゴのユニホームを着て永久に忘れられぬ素晴らしい時を過ごす事ができました。カーニバルでは、生まれたキンチーノでの私の少年時代の思い出と、近年での「青と白」の歓喜が特に記憶に強く残っています。

サウドジスタ(懐古主義者)ではないのですが、サウダージ(懐かしさ・郷愁)に浸り、 60年代後半にまで時代をさかのぼりたいと思います。

13歳から14歳にかけて、私は既にルシンダ・バルボーザ通りに出向き、公園でのお祭り、ブロッコス(カーニバルの団体)、ポンターオでのバイレ(祭りダンス)、キンチーノのグレミオ(会館)、子供達の祭りダンスなどのパーティーや施設での催し物が行われる、生まれ育った地域のカーニバルを楽しんでいました。また、サッカーとカーニバルは常に関係が深く、ジュヴェントゥーデの団体も参加し、土曜日には選手全員が女装して出場するカーニバル・サッカーも開催されたものです。

勿論、過ぎ去りし 60~70年代の古き時代のカーニバルは、現代とは明らかに違っていたのは言うまでもありません。開放感があり、まさに“路上のお祭り”でした。特に、キンチーノ地区での路上の祭りは誰しもが自由に参加でき格別に魅惑的だったのです。女の子達の最大の関心事は「クローヴィス又はバーテ・ボーラス」と称するマスクで変装した少年達でした。マスクで変装した少年達のボールを蹴る音と鳴り響く笛の音が参加している子供達を驚かします。私は、「クローヴィス又はバーテ・ボーラス」から逃げるか、地域の草サッカーに出場する為に、自分もその一員になっていた事を思い出します。当時、誰にも見抜かれない様にマスクを付けて何度もサッカーをしに出かけたものでした。

地域間でのサンバ・グループによる交流も行われていた事を記憶しています。キンチーノには、マドゥレイラのバッフォ・ダ・オンサとハーモスのカシッケがパレードしていました。伝統的なサンバ団体である、アッハンコ・ド・エンジェンニョ・デ・デントロ、アッハスタォン・デ・カスカヅーラ、そしてポルテーラなどの名門サンバ団体の一部もキンチーノ地域をパレードしていたのです。更には、キンチーノ地域にも有名なデシヂードスとアリアードスの集団が存在しておりました。キンチーノの連中はジュヴェントゥーデのカーニバルの団体に加わって、打楽器や管楽器などの演奏と共にお祭りを楽しんでいました。我々は近郊のリオ・ブランコのパレードにも参加した経験があります。即ち、我々はリオ市北部のカーニバルを存分に盛り上げていたのです。何故なら、詩人曰く「サンバの都」マドゥレイラは、キンチーノの直ぐ近くに位置するのです。でも、実際には他の多くの地域でも良く似た光景が見受けられ、その時代を生きた人は思い出を語れるでしょう。

ブロッコス(団体)、ソシエダーデス(クラブ)、アソシエーション(協会)、アグレミアソェス(コミュニティー)と多くの過程を経て現在の「エスコーラ・デ・サンバ(直訳:サンバ学校 意味:サンバ団体)」が形成されました。長い歳月過程を経て魅惑的に変化したのです。ブロッコス(ブロック)は各地域とリオ・ブランコ大通りをパレードし、伝統的なエスコーラ・デ・サンバ(サンバ団体)はプレジデンテ・ヴァルガス大通りをパレード会場にしていました。「サンボードロモ(サンバ専用パレード会場)」が完成した 1984年以前の時代の事です。

1970年代半ばに、既に20歳を過ぎていた私とカーニバルとの関わり方に転機が訪れました。その頃、友人のフラメンゴのDFクリストヴァォン(彼は、バイシャーダ・フルミネンセの地区での生まれ育ちです。)に連れられ、ニローポリスのベイジャ・フロールのコート(練習場・体育館)に行きました。そこで私は素晴らしいオマージュを受けたのです。大変感激しました。

1976年にベイジャ・フロールは私に幸運をもたらしてくれました。ベイジャ・フロール・カーニバルの月に、私は初めてブラジルA代表に召集され、それ以降10年に及ぶセレソン(ブラジル代表)のスタートを切りました。そして翌1977年、ベイジャ・フロールはカーニバルで優勝を飾ります。私はこの2つの出来事のお祝いとして、カーニバル時期にリオに居る時は必ず「青と白」を着るのです。そして、何年にも続くカーニバル!ジョアンジーニョ・トリンタの天才的な創造物など、忘れられぬ想い出で一杯です!

これ程十分な喜びに、更に昨年は新たな喜びが加わりました。それは、ベイジャ・フロールが 1998年から、後一歩及ばず逃していたタイトルです。いわゆる、サッカーでの得点力不足解消の時を迎えたのです。私がちょうど50歳を迎えた年にベイジャ・フロールは優勝を成し遂げました。「空袋は大地に止まらず~戦争をする手は平和も創る」が優勝テーマソングのタイトルでした。私はこの時に、2度の祝祭を満喫する事が出来ました。何故なら、私の誕生日の日にパレードに出場する事ができ、更に土曜日の優勝エキジビションパレードにも出場できたからです。

幾多のカーニバルは過ぎ去っても、我々の日々の営みの中に生き続けるのです。鮮やかに、力強く…。そして、新たなる思い出として胸に秘められます。貴方も素晴らしいカーニバルを過ごせすように…。そして、カーニバルの歓喜が年間を通じ我々に喜びを与えつづけてくれる事を願っております。

という事で…、ウン・グランデ・アブラーソ!

また来週!

ジーコ直筆サイン

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