ジーコの部屋

ONDE TUDO COMECA すべての始り

ピッチ内にかかわる話、チームの関心ごとやエピソードなど、このコーナーはどちらかというとサッカーに関連したものばかりである。だけど今週は特別にそれ以外の話題にしよう。というのも今度の日曜日は母の日であるから。私はこの輝ける女性達を祝したい。そう、間違いなくすべては母から始まるから。

私の母のエピソードをいくつか紹介したい。母は私の人生にいつも付き添ってくれ、近くで全部見ていた。私の貧弱な身体を強くするために医師から言われた食事を作り、頑強なデフェンダーに耐えられるように食べさせた。そして医師の指示した筋肉強化の特別メニューを守るように手助けもしてくれた。

始めの話は私がプロ選手の世界へ一歩足を踏み入れた頃のこと。あの時はまだフラメンゴの補欠だった。ある時ベロ・オリゾンテへ試合に行った。私の母はいつも一人で外出する事が多かったが、その事を知らせない為に私達をびっくりさせる事もよく起こした。試合当日、リオのキンチーノを出てバスターミナルまで行き、試合場のミナス州へ出かけた。ベロ・オリゾンテには母に良く似ていた叔母が住んでいたこともあり、母はのんきだった。

だが、母は親戚の家にも寄らず、真っ直ぐバスターミナルからスタジアムへ向かった。ところがスタジアムに着いてみると、私はメンバーリストには載っていたが、試合には出場しないことになっていた。その事を知ると、母・ドーナ・マチウデは二度考えることをしなった。試合が始まる前にバスに乗ってリオへ帰ってしまった。試合はどうでも良かったのだ。私の母はこのように決断力のある人だった。

私は何度か丁度母の日かその前日かにゴールを決めたことがある。その時にはいつもそのゴールを母に捧げた事は言うまでもない。1974年にグレミオとの試合で忘れられないことがあった。私の経歴の中でも最も綺麗なゴールだったと思う。ある土曜日の夜で母の日の前日だった。難しい局面の中で決められた本当に見事なゴールだったと自負する。

その局面はジェラウドからサイドにいたルクシェンブルゴにパスが通ってからだった。彼はそれを中央のエリア外にセンタリングした。それを強烈にボレーシュートした。普通ならボールは大概観客席の方へ飛んで行くものだ。だが、私は全神経を集中させて素晴らしいゴールを決めた。

それをドーナ・マチウデに捧げた。今日までヴァンデルレイ・ルクシェンブルゴルクと冗談を言い合う。彼の経歴はあの正確なパスだけで価値があるよと。いや、それぐらい見事な彼のナイス・センタリングだった。

私の母は良くインタビューなどで、好きな私のプレーは相手を何人もドリブルしてゴールを決めるスタイルと言っていた。だけど、もう一つそのドリブルなしで決めた見事なゴールもある。簡単すぎるくらいだった。83年のブラジル選手権でのこと。その準々決勝で我々は優勝を目指していた。1試合目は対ヴァスコだったが2対1で勝った。2試合目は引き分けでもよかったが、結局その通リになり、私の1得点で引き分けとなった。確かアジーリオが右側に突破して私にパスを出した。キーパーが飛び出して来たので、私はそれを交わしてネットの奥に押し込むだけだった。

得点後、どのようにしたかはよく説明できないが、その時思ったのはもう何日も母と遠く離れていることだった。何日もそばにいれず抱擁も出来ないでいて、恋しさも増していたのがその時の気持ちであった。それが私を走らせた。サポーターの方や、ピッチの外へ向かってではなくコーナーへ走った。コーナーフラッグの方向へ。両膝を着いて私はフラッグにキスをしていた。母にキスをするように。

83年5月8日のそのジェスチャーは私の歴史に残り、なおブラジル・サッカーの歴史にも残ることになった。全く前もって考えてもいなかったことで、その場で自然に体が動いていた。ピッチの中からのプレゼントはそれ以外にはなかった。

このような私の懐かしい母、ドーナ・マチウデとの話は、妻であるサンドラをも連想させる。私の息子達の母親である。そして私の人生でこの二人の偉大なる女性を思い返すのと同時にブラジル全国と世界に散らばるお母さん達に祝福を送ります。

>一覧へもどる