ジーコの部屋

Mudanca de habito  習慣を変える

私がサッカー選手の頃はいつも自然に沢山の人達からの暖かい声援を受けていました。ブラジルのどこでもイタリアでも、いつもサポーターからサインや写真を一緒に撮ることを依頼されました。その事はどんなことよりも良かったのです。ところが1991年に日本に行った時はそれが少し違う感じでした。日本の主なスポーツは野球であり、サッカーの世界ではまだプロリーグが存在していなかったのです。

日本に着いたばかりの頃、無名の人間である事の感触を味わいました。子供の学校の問題もあり、東京の上野毛という所に住み、そこから練習や試合のために茨城県鹿島市にある住友金属に通うこととなった。まず上野毛から大井町まで電車で行き、そこから別の電車に乗り換えて東京まで出て、更にそこからバスで鹿島へ行った。全く一つの旅行だった。

私は気楽に通った。人々の態度を観察し、毎日の移動の中で見ている事から少しずつ何かを学び取って行った。時折サッカーに精通している人には知られていることも知った。あるいはブラジル人の人から。私の日常はそんな感じだった。1993年にJリーグが出来てプロ化の第一歩を踏み出した。この時にはもう住友金属は名前を鹿島アントラーズに変えていた。鹿島での初戦はグランパスを相手にして私は3ゴールを記録した。日曜日のことだった。

妻サンドラと子供達は私と一緒に居た。次の日にはまるでブラジルやイタリアでの勝った試合のようにその試合のニュースが各スポーツ新聞に大きく載っていた。そして私の写真がその殆どに出ているのを見た。スポーツ新聞以外にも載っていた。何を書いているのかさっぱり解からないからページをめくるしかなかった。テレビを見ても同じ事だった。

月曜日は休みだったので火曜日に鹿島に向かった。水曜日には第二節の試合が予定されていた。その日も何時もと同じ電車に乗った。上野毛で先頭の列車に乗ったが乗客がいっぱいで混んでいた。それでも車内に足を踏み込むと驚いた。皆は視線を私に集中し、殆ど同時に声を上げた。「オオオオッ」私は一瞬不安に陥ったものだ。

どうしてあんなに急に変るのだ?私はサインをしながら自問していた。誉め言葉を貰い、写真を一緒に撮り、電車に乗っている人のほとんどが近寄って来た。それは一人のブラジル人選手が日本でいきなり有名人になった時だった。私の顔は外国の日本サッカーで知られることになり、人々の注意を引くに十分になった。

私の生活へのインパクトは大きかった。40歳になってこんな風になるとは正直思っていなかった。大井町駅に着いて別の電車に乗る時、そうしない方が良い事をアドバイスされた。東京までタクシーを使い、そこからはバスで鹿島まで行った。だが、バスを待つ列でも同じ状況になり、その間もずっとサインをし続けた。

最終的に私はあの日はいつもの習慣を変えざるを得なくなった。みんなの優しさを嫌ったわけではない。変えないと道中で疲れるし、また混雑を起こし、他の人達に迷惑を及ぼすことにも成りかねなかったからだ。それ以来、電車とバスに乗って鹿島へ行くことが出来なくなってしまった。その後鹿島に移り住む事にした。そこではチャンピオンにもなり、ピッチの中でも外でも素晴らしい日々を過ごす事が出来た。


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