ジーコの部屋

Iluminacao artificial  即席の照明設備

日本での生活のスタート時はいろいろと困難を伴った。サッカーもリーグがプロ化していなかったし、ピッチも土で固かったしスタジアムも完璧じゃなかった。1992年に入団した私のチーム、住友金属(後に鹿島アントラーズと名前を変えた)もまだしっかりしたプロチームになっていなかった。だからチームに対する大会での成績に対する要求もさほどではなかった。1992年の12月、松山市へ天皇杯でヤンマー(現セレッソ大阪)との試合に行った。広島市にも近かった場所。私は1得点し2対1で我々の勝利に終わった。

翌年、日本サッカーはプロ化しJリーグがスタートした。その中でサンフレッチェとの試合がその松山市で11月にある事を知った。前年に試合をした同じスタジアムだった。ただキックオフが午後7時になっているのが問題だった。記憶力が良い私が説明すると、あのスタジアムには照明設備が無かったからだ。以前の試合では昼間だったので照明設備は要らなかった。

それからどうやってあの場所で試合が行なわれるのか考えていた。まず一年足らずの間にスタジアムに照明塔を造ったのだろうかと考えた。それが一番可能性が高いからだ。鹿島のスタッフにも聞いて見ると、誰もあのスタジアムが工事されているなどと言わなかった。それにみんなもどうやって暗い所で試合が出来るのか説明できないでいた。私はますます興味を引かれた。私だけがこの点について気にしていて、この問題をどう解決するのかを考えるため何時間か消化してしまった。

その日はやって来て松山市へ出発したのだ。なんとかするのだろうとは思っていた。恐らくこういう事については、あの日本人がその先進技術を駆使して解決するだろうと思い、疑う訳には行かない。ただ、私はどういう技術を使うのかが疑問であった。私達がスタジアムに着いた時には驚いた。それが以外と簡単な方法で解決されていたのだ。グランドの回りには6台の黄色く塗られた大型クレーン車が置かれていた。4コーナーに一台ずつと中央タッチライン両側に一台ずつだ。大型クレーン車には塔が付いていて、その先にはライトがあった。6台のライトがピッチを照らし、まるで昼間の様に明るかった!まったく完璧な状態だった。

その最初の衝撃を受けた後、我々は2対0で勝った。私は出場せずに横で見ていた。黒崎とサントスの得点だった。試合が終わって、更衣室で着替え帰るためのバスに向かう時、もう一度あの"照明塔"を見ようとした。でも見えなかった。"照明塔"はもう帰っていていなかった。我々が帰る前にだよ!! 驚いた。私はあんな事はそれまでに見た事が無かった!! 
いやはや即効性技術については日本人にしか出来ないと感じたものだ。

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