ジーコの部屋

Faltas na Italia イタリアでのフリーキック

時々、若者達や選手達と話す事がある。練習を欠かさずに行い、持っているものをより成熟させることを求めて行く事が大切だと強調している。サッカー選手の生活は、グラウンドでいかに真剣に取り組むかということであり、その姿勢が自分の目標を超えるために十分であるかどうかが大事であると常に言っている。
フリーキックはそのことが写し出されるのに良い場面だと思う。自分は物凄く練習した。それは試合の中で起きうるであろうさまざまなケースを想定し、ゴールを奪うためだった。数えきらないくらい繰り返し練習した。何時間も、壁を越えるように、キーパーを外すように、練習のときにキーパーがいない時はゴールの上角に目印のシャツにつるし、そこに当たる様にボールを蹴り続けた。この練習は自分のフリーキックのやり方をもっと成熟させた。
私が言うことには真新しいことはない。しかし根本的なことで、わざと一つ明らかにしていないことがある。1983、84年にイタリアのウジネ-ゼに2シーズンの時のことだ。

フラメンゴから移籍のためにブラジルを出てイタリアに行く気持ちは無かった。どうして行ったのかというと他に方法が無かったからだ。私は選手として一番調子の良い時だった。リオ州選手権、ブラジル全国選手権、南米リベルタドーレス杯、それに世界クラブ選手権(トヨタカップ)などフラメンゴはほとんどのタイトルを可能な限り取っていた。今日までに、78年から83年の間に勝ち取ったタイトルの数々は最も記録に残るものである。その後、イタリアに行って自分が最高潮であったこともあるが、始めの試合からフリーキックをするのが以外と容易である事に気付いた。そこでフリーキックの練習は絶対怠らず、ゴールを量産した。私のイタリアでの3試合目、レアル・マドリーとの親善試合でも一点取った。セリエA初試合のジェノヴァ戦では二点決め、その内一点はフリーキックからだった。二試合目のカターニャ戦でもフリーキックを決めた。3試合目もフリーキックから得点した。

あの出来事は沢山の人々の興味を引かせた。私は自分の蹴ったボールがネットを揺らせているのはたまたまではないことを承知していた。が、報道関係はこの状況に随分と騒いだものだ。ちょっとした異変だった。新聞社はスペシャリストを呼んだり、元ゴールキーパーを呼んだりして話を聞いた。現役キーパー自身も防ぐ事が難しい事を話し、コツを探していた。リーグが始まって3試合目と4試合目の間ぐらいだったか、彼らはとうとうテレビでテーブルを囲んでキーパーを呼び話題にしていた。私がそれを自宅で見ると、私のフリーキックをどうしたら防げるかを話し合っているではないか。その番組の後、フリーキックを決めることが以前より難しく成ったのは明白であった。キーパー達は壁の位置を逆にしたり、空けさせたり、私の前に選手を走りこむようにしたり、様々な事をした。一度などユヴェントスとの試合の時、ボールを蹴るまでに4分もかかったことがある。レフェリーが厳しいため、壁の位置が正確に決まるまで笛を吹かなかったのである。

その後、16試合もフリーキックで点を決められなかったことがあった。この時期には今まで以上に練習に励んだものだ。丁寧に、丹念にキックの精度をもっと磨いた。ただ同じ事ばかりを磨いても駄目である。工夫をして別のやり方も磨かなければいけない。私はそれを実行し、今までのやり方を変えた。前は壁の上に弧を描いて飛ぶように蹴っていたのを、もっと強く蹴る、変化をつけるように蹴る、というように。地面を這うよう蹴ることも練習した。相手の裏をつかなければいけないのだ。練習することによって私はいろいろな「やり方」を持つ事が出来た。そしてまたフリーキックで点が取れるようになったのである。あのシーズンも次のシーズンもね。あの2年は自分の新たな技術を学び、磨くのに大変貴重な時期だった。常に最良の結果が出ると確信を持って沢山の練習をした。この教訓を私は今でもずっと持ち続けている。

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