ジーコの部屋

Dada Profeta 予言者・ダダー

あまり知られていないが、私がダリオ・ドス・サントス、こと"ダダー・マラヴィーリャ"を知ったのは彼とフラメンゴで共にプレーするようになる随分前の事だった。私はキンチーノのルシンダ・バルボーザ通りで生まれ育った。近くにキンゼ学校があり、ダダーは子供の頃そこの生徒だった。私はその学校に良くサッカーをしに行き、そこで同じように遊んでいる彼と会ったのだ。その後は暫く会わなかった。ダダーはサッカーをカンポ・グランデで始め、私はフラメンゴに入っていた。ある日またフラメンゴのガーベアで出会ったのだ。

それは1974年の始めだった。ドイツでのワールドカップの年だ。フラメンゴは中東へ遠征に出かけた。遠征国はアラビア、クエート、ギリシャにザイールだった。ザイールではW杯に出る代表と二度試合をした。あの当時の我々の監督は、ジョウベルだったが彼が私を連れて行った。のんびり者ジェラウド、パウリーニョ・カリオカ、ジャイメ・デ・アウメイダ、ゼ・マリオ、パウロ・セーザル・リマ、それにダリオがいた。二度の試合後に我々が知った事だったが、ザイールはフラメンゴに負ける事は出来なかったのだ。W杯に出る代表がクラブチームに負けるのはみっともない事だった。            

試合当日、スタジアムはおよそ6万人で埋め尽くされていた。キックオフ後、ザイールは意外にも2対0としたが、我々は前半の内に同点にし、なお3対2と逆転した。ハーフタイムでマークを修正し、ピッチに戻った時ダダーが私にくっ付いて肩に手をかけ囁いた。

「ジーコ、綺麗なボールを出すなよ。試合は複雑だよ。とてつもない責任があるんだよ!」       

私がその時まで知らなかったのは、レフェリーがザイール側に立っていたことだった。チームが負けない様にしていたのだ。シュートされたボールがバーに当たって跳ね返っているのに彼等のゴールになっているのだ。レフェリーがピッチの中央を指しているのを見て我々は怒った。騒動を起こした。パウロ・セーザルと私はクレームした事が原因で退場にされてしまった。フラメンゴはそこでピッチを出てしまった。遠征の責任者であるエリアス・ザコウルがレフェリーに話しに行って、我々が11人でピッチに戻ることに落ち着いた。私とパウロ・セーザルも含めて。 

だが、話にならなかった。おかしなPKを取られ、ザイールは4対3にした。試合をしようとしなかった。ザイールもセンターサークルから前に出ようとしなかった。我々も同じようにして、自陣でボールを回していた。そんな中、ゼ・マリオがキーパーの前に出ている所を狙ってシュートを決め同点にした。試合は4対4で終了。ザイールが考えていた結果に持ち込めた訳だ。1試合目も負けずに、二日後も同じように負けなかった。3対3で私は2得点した。    

この遠征は私に取って大変印象的だった。そこからフラメンゴの主力に定着して行ったのだ。ザイールでの話以外にも別の出来事が遠征を思い出深いものにした。ダダー語録が出来て"問題が起きる時には、ダダーが解決法を持っている"、と言うのが他の出来事と共に日記帳に書かれていた。ある夜夕食の後、彼は部屋にやって来てその秘密の日記帳に書いてあるものを見せた。 

"ジーコはブラジル・サッカーで大選手になるであろう"。    

それを読んだ時、その文章は正直私の心を動かし、常にそのために闘ってきたのだった。これが私の歩んで来た中でのダダーとのひと時である。 偉大な予言者;ダダー。


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