ジーコの部屋

Zagueiro desastrado, atacante vencedor 
不運なデフェンダーから勝利者のアタッカー 

サッカーをする楽しさに夢中になって成長していき13歳から15歳ぐらいの年になると、本能的にその延長線にプロサッカー選手を人生の職業とする道を描き始める。その時少年はボールを優先的に考えそれに集中し少しずつその道に近づいて行く。私は恵まれていた。それは住んでいた場所であるキンチーノ・ボカイウーバ、リオ市の北に位置する場所はボール遊びをするのに不足は無かった。通りに棒切れや石を置いて草サッカーをしていた。自然に存在する石畳のデコボコや歩道の段差なども利用してドリブルしていた。私達がゲームを一時停止するは若い娘かお年寄りが通る時だけだった。

家の庭にもサッカーコートが作られてあったが、それ以外にも周囲には遊べる広場が沢山有った。その内の一つが私の住んでいたルシンダ・バルボーザ通りから近い所にあった。それは結構管理されたサッカーが出来るグラウンドだった。実はそのグラウンドはフェベンと言って少年院の施設であった。元々はキンゼと言う学校だったのが、FUNABEM(フナベン)と呼び名も変わっていた。そこで生活していた少年たちは近所では怖がられていたが、あの頃の私は彼らがどう言う理由であそこに居たのかを理解出来ていなかった。具体的には彼らの多くが単純に両親を無くしていて、ちょっとした悪さをした事で良い道に進むためにいたのだ。

私の通りで遊ぶ仲間は彼らと良い関係を持っていた。よく日曜日にはマラカナンで試合を見るために、彼らが施設から抜け出すのを手伝ったりもした。そのお礼に彼らは私達の草サッカーを応援してくれて、その内に町内大会まで催すようになった。そんな時、サンジョルジェFCとキンゼ学校の試合が有って、その状況ではブラジルサッカーに反映するような出来事が起きていた。

サンジョルジェには私の兄、アントウーネスがプレーしていた。兄はキンチーノでも知られる存在だった。相手チームのデフェンスゾーンで点を取りまくって混乱させていたが、そのデフェンスにはダーリオが居た。少年ダーリオは年齢の割に背が高く、体も大きくて強かったが、ちょっとサッカーセンスが不足気味でチームのデフェンスには物足りなかった。だが、ボールを扱うのは何となく個性が有ったし、要はどうやらポジションが悪いようだった。彼もそれに気づいていて、私の兄から大量点を取られてから大きな声で叫んでいた。

「あのさあ、みんな、もうデフェンダーやるのは辞めたよ。誰か他の者を探してくれ。アントウーネスは僕を駄目にして、3点も取っているよ。僕は前でやりたい、攻撃したいよ。」

飛び上がる力と背丈がある、ダーリオ少年にはひょっとしたら正解かもしれない。彼が本当にサッカーをしたいのだったら。その通りになった。あのダーリオは19歳になるまで居て、フナベンの得点王にも成った。それでカンポ・グランデのユースチームに入るチャンスを与えられた。いつもの様にギクシャクはしていたが、点を取る能力が高い事がアトレーチコ・ミネイロの注意を引いた。

あのダーリオ少年は、兄たちの草サッカーでゴール裏から見ていた私の目には、頼りないデフェンダーにしか見えなかったが、後になって私の良き友達となったダダー・マラビーリャだった。フラメンゴ、インテルナショナル、その他のトップチームを歩いてきた。それどころか歴史に残る70年ワールドカップ・チャンピオンでも有るのだ。

世界が昔を呼び起こす・・、私は我が国の偉大なストライカーを見ながら育ったと言っていい。 偉大なダダー。 

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