ジーコの部屋

Um nome a zelar 一つの名が無にする

フラメンゴで勝利者となった監督でこのコラムにも出たことのある人物、彼とは私は選手を始めた頃に出合った。元々彼はこのクラブの冗談を言い合うチーム仲間の一人だった。選手達?そう、それは81年の世界チャンピオン、同時にリベルタドーレスチャンピオンでも有るパウロ・セーザル・カルペジアーニであって、もっと言うと私やジュニオール、アジーリオ、アンドラーデ・カンパニー、つまりあの当時言われていた“黄金のチーム”でブラジル選手権制覇もしているのだ。

そこで、選手から監督に転向した事はいきなりと言うべきほどだった。前日には我々と試合に出てプレーしていたのが、翌日にはその我々チームの監督になっているのである。そう言えば私も鹿島時代に同じような環境にあったことがある。選手としてプレーしながらも、ある時には同時にチームの監督もした。カルペジアーニと違うところは私の場合二つの役を兼ねていた点だ。彼は31歳と言う若さだったが、複雑な怪我で選手を引退した。

最近このコラムでチッタを巻き込んだ話題を提供した。カルペジアーニが1977年にインテルナショナルからフラメンゴにやって来た時にはチッタはまだ若かった。70年代後半にカルペジアーニがチッタに色々“コツ”を教えた話だった。それは経験者たちへの伝達手段としても大変効力を発揮したものだ。だが、カルペジアーニとチッタはそれ以外でもとても仲良しになっていた。からかう事をいつも企み、合宿や遠征の時などはペアはチームの脅威になっていた。 

しかしサッカーでの現実はそうでは無い、今でもハッキリ言えるのはそれぞれがプロフェッショナルであった事だ。誰もが練習のための準備は出来ていたし、誰もがその責任から逃げようなどとはしなかった。だからこそチームであの栄光を勝ち取れたのだ。そうした中でもまだカルペジアーニとチッタのようなじゃれ合う位仲間意識を持った者も多かった。ピッチから出ればお互いに何かしか悪巧みを仕掛け、またペアになって他のメンバーをも脅かした。だが、ある日全てが変わった。

1981年7月24日、カルペジアーニはいつもと違う小難しい顔をしてチームの監督になった。あの日から彼は偉大なふざけ相手チッタもいて、その他個性色豊かなアミーゴや仲間が混じるチームを前に真剣そのものになり切った。一通りの挨拶を済ませた新監督は特にチッタをそばに呼び重要な話をした。

「あのなチッタ、これは俺たち二人だけの間だけど、状況は変わった。自分は監督になった訳だ。そこで今までとは違う、つまりからかいもふざけも終わりだと言う事をハッキリ言っとくよ。立場的にな、今までの事は皆無だ。頼むぜ」 

チッタは可笑しくも思ったが、指揮官の言う事を尊重した。事実二人の状況は以前の様には出来なくなってしまった。だが、友情は残りフラメンゴはその歴史上でも貴重なタイトルを手にする事になった。あの当時、カルペジアーニが昔の恥かしい話をチッタがいつバラすのではないかと言う心配事に私達はまだ笑いを飛ばして楽しんだものだ。

>一覧へもどる