ジーコの部屋

Um jogo dificil de esquecer  忘れられない難しい試合

人生でいつも記憶に残る試合はあるものだ。1981年に行われたフラメンゴがボタフォゴ相手に6―0で勝利した試合もその内の一つ。双方のライバル意識の話も以前にした事がある。私が子供の頃は今で言うフラメンゴ対ヴァスコよりも大変な勢いのライバル意識だったのだ。ボタフォゴにはマネー・ガリンシャとニウトン・サントスの面々がいて話題になっていたものだ。中々倒すことが困難であったが為に余計にいつも盛りあがる大試合になっていた。

観覧席で見ていた頃は私を最も興奮させる試合だった。さて、自分が実際に選手なって、その対決はもっと緊張させるものになった。最近の若手はどうか知らないが、1972年に私が既にプロチームでプレイしていた頃、フラメンゴはボタフォゴに6―0と言う大敗を喫し、随分長い間それが多くの喉に引っかかっていた。そして酷いことに私はあの試合に出るはずだったのだ。ドヴァーウの交代としてリストアップされていたのに、その場になって監督のザガーロは考えを変えて、年配のウンベルト・ヘーデスを入れた。私は19歳だったが集中していた。結局あの試合をベンチからサポーターのごとく見て終わった。

1972年から1981年の9年間は大変だった。あの大敗の前の60年代にフラメンゴに勝てばプレミアムは保証されていた、というマンガの話が存在していたのだ。あの6-0の後、対ボタフォゴの試合の度に“6-0の勝利は気に入った”、という垂れ幕が観客席に下がった。ピッチに入る前から頭がドーンとしていた。あのスコアに近いところまでは行ったが、中々達成出来なかった。6点以上で勝たなければならないのだ!

81年の試合は覚えている。我々のチームが最高に勢いのある時だった。ボタフォゴにお返しをしてやる為に集中して、それ以降に持ち越さないように自覚していた。だが、その週は問題だらけだった。ヌーネスはもう少しで試合に出られなかったが、何とか出来た。その彼が7分に先制点を決めた。マークを締め付けて、無意識の内に相手に襲い掛かり、死に物狂いで可能な限り動いた。少なくとも6点を挙げたい!だが、2点目が出るのが遅れた。私は27分、エリアの外から賭けでシュートしたのが入り、2点目をゲット。差を広げた。

算数はシンプルである:前半にあと1点入れるだけのことだ。それをやった。33分、リッコが3点目を入れてしまった。なお、主審が前半終了のホイッスルを吹く前にアジーリオが4点目を決める。サポーター達は狂喜していた。そしてもっと点数を増やすように要求した。 

ロッカールームに入った我々はスコアが0-0と言う意識で集中していた。頭の中は6-0を返してやる事で一杯なのは当然だった。しかし誰もそれは言わなかった。全員が暗黙の内の認識を持っていた。あの時間に色々言うのは、ましてや72年の敗北チーム唯一の現役残存選手であるジャイルジーニョの仇を取るなどという事は、かえって邪魔になるだけだった。

敗北の仕返しをする為に我々は準備万端であった。だから一つでもそれを崩すような事が起きれば取り返しがつかなくなる。我々の武器はボールであり、ハーフタイムでは静けさを保つ事だった。我々は最後のパンチを食らわす為に、戦士のごとく闘志を燃やしてピッチに戻った。11人のフィールドの戦士、ベンチ組に監督カルペジアーニ。観衆は“6点が欲しい、6点が欲しい”と怒涛のように叫び、我々はそれを取りに行った。

5点目が決まるまでに29分かかった。ロッシャのペナルテイーだった。私が決めた。確信を持って試合続行。ゴールは生まれない。あと3分で終了。アンドラーデがエリアの外でボールを受けると怒りをぶちまけるようにぶっ放した。ボールはネットを大きく奥に膨らました:6―0。全員が狂ったようにサポーターの方へ走り寄る。あの大量得点はフラメンゴの重い石を取り除き総てをゼロにした。

19日後にはリベルタドーレス・タイトル制覇後の東京で世界選手権を制覇していた。あの忘れられない試合から続いた連なる勝利、忘れる事が出来ない年でもあった。

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