ジーコの部屋

Muita hospitalidade 大変なもてなし

今週のジーコの部屋では我々は1988年に後戻りしよう。フラメンゴがキリン・カップで日本へ行った時である。今では一つのトーナメントになっている。あの時の私達は日本代表に3-1で勝ち、バイヤー・レバークーセンと中国に1-1で引き分け、最後にドイツに私のゴールの1-0で勝って優勝トロフィーを征服した。   

だが、もっとおかしかったことが起きたのは東京で終了ホイッスルがなった時だ。その時はまだ日本サッカーでプレイする事など考えてもいなかったどころか、まだ七年前にフラメンゴがクラブ史上最大のタイトル:世界クラブ選手権(トヨタカップ)で優勝した舞台であった事の思い出に浸っていたものだ。 試合は夜終わり、私達の友人のエリアス・ザクールが日本の伝統的な料理の一つ、鉄板焼きを食べに連れて行ってくれた。

私とジウゼッペ・タラント医師、それにチームの何人かが車に分乗して出かけた。 みんな空腹であり、奥さん達も同伴して興味深々だった。鉄板焼のメッカとエリアスが言う場所に私たちは着いた。なんでも一番美味しい食べ物だそうだ。レストランへの階段を上り始めた時に、問題有りと感じた。ウエイターが閉店の看板をドアにかけようとしていた。

そこでブラジル人は日本人に質疑をした。エリアスもトライし、何人かが簡単な英語を使ってなんとか入れてもらう様に説得した。だが、彼等は組織的で厳守的である。それだけではない、日本の人達は普通夕食時間が早い。それに主な交通手段は電車であるが、これが夜11時過ぎには止まってしまう。そこで、時計が21時を指すと彼等はドアを閉めてラストオーダーを取る。

その頃はもうその営業時間を5分過ぎていた。ただ、そのウエイターは私達がレストランに入るのを禁じるのと同時に、食べられる他の場所を案内しようとしていた。彼は忙しそうに早口で喋り、先に立って早足で歩き出した。私達も後について歩き出した。常識的には通リを一つ渡ったくらいの距離だと考えていたがとんでもない。一つ目を超えて、二つ目を超えて・・・三番目の通リ。その頃はもう少し行けばみんなブラジルのキンチーノの我が家に着いて、母であるドナ・マチウデのフェイジョアーダを食べれると思った。大げさではないよ。ウエイターの彼は早歩きをもっと早くしたような感じがして、それでもまだ早口で喋るのを止めていなかった。他のメンバーは徐々に疲れた意思表示をしていたが、私はなんとかこのマラソンガイドに付いて行こうとしていた。

もう皆がいいかげんこの日本人は私達を一周させて居るんじゃないかと思い始めた頃、私は彼に自分が誰だかを教えようとした。片言の英語にフランス語を混ぜて、少しポルトガル語も入れたりして説明に努力した。なんとか理解して貰った手ごたえがあった。それは同時に私達のシチュエーションをもっと悪くしてしまった。彼は私がフラメンゴでプレイしていたのと、1981年には世界チャンピオンになっていた事を知ると、F-1のレーサーみたいにギアを五速に入れた。私達の希望をどんなことをしてでもかなえてやりたかったのだ。 

出発点からおよそ3キロメートルは歩いてやっと目的地に着いた。私達を目的地に届けられた達成感に浸る彼に礼を言った。彼の速さは私達の手助けをしたい思いだったのだろう。 目的は達せられた。

忙しかったが会話もできて、大変良く食べた。食事は「いつか又戻る」 と言う味がした。本当に戻った。三年後に。だがあの時のテーブルで居合わせた連中に一言言った。

「これこそがもてなしだ。」

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