ジーコの部屋

Momentos marcantes 記念するべき時

今週のコラムは特別だ。何故なら2005年6月8日は私の人生にとっても特別な日となった。私は1991年に選手を引退する事を決意したが、それを翻してアマチュアであった日本サッカー界に入る事にした。その当時にはまさか将来日本代表の監督になるとは想像もしていなかったし、ましてや監督としてワールドカップの予選を通過するとは更に予想できなかったことだ。随分長い道のりだったように思える。

サイトを見てくれている皆さんは良く解ってくれていると思うが、私は監督になるつもりは全くなかった。2002年のワールドカップで日本で観戦していた時も、代表チームの指揮をとるなど考えてもいなかった。すべてが予想外の出来事だった。ブラジル、イタリア、日本でも選手としてプレーし、指導者としても働いて経験が豊富であったとしても私の頭の中では、この代表監督という新しい仕事は全く考えていなかった。

私はなるべく大きな事を言うのを避け、約束もしないようにして来た。言葉によって私は幾度も色々なリスクを負った。それでも日本代表の指揮を取る時の私は、常にプレッシャーの中にいた。私は概念を変える必要性を外から見ていた。心理的な分野での必要性。歴史の壁を壊す必要があったし、日本人の本質を活かし新たなアイデアを注入すれば必ず的を射る事になると確信していた。

この道、つまり信念と確信が改革を促し、それが改良を可能にした。しかし決して楽では無かった。だが、これが私に選択することを学ばせた。日本の監督になる理由は決してうぬぼれでは無いし、執着してもいない事だった。いつも対戦相手を勉強の対象と考え、大量得点をして世間からの批評を沈黙させる事など考えていなかった。私を躍動させる理由は、90年代に私を暖かく向かえてくれたこの国に対しての感謝の気持ちだった。

始まりは大変困難だったがこの3年間は時にはドラマチックで、ある時は悲しい事もあった。最初の2試合目が終わった後にはピッチに立てていなかった。アルゼンチンとの試合3日前には母親、ドーナ・マチウデが亡くなったからだ。アントウーネス家の偉大なシンボルで私の人生に不可欠な人物だった。その時はリオに戻って代表チームの敗北を見た。だが、私は練習を積み重ねれば目標は達せられる事を常に信じた。 

追求は困難であった。変化は今日、明日の短時間には現れない。実際に我々はまだ変化と進歩を続けている。今、コンフェデレーションズカップの為にフランスへ来ている。我々は良い状況にいる。が、細かなところが不足した。我々はホーム・ゲームに勝っても良かったのだ。だが、勝てなかった。もっと出来るはずだった。今は練習のリズムをアップしている。

この3年間で刺激的な出来事がいくつかあった。その中でも昨年予選でオマーンとの試合の準備を成田でしている時に起きた地震である。あの地面の揺れは全員を驚かせた。私は10階にいたが、恐怖の一夜だった。

地震の驚きでは足りないと見たのか翌日には台風がやって来てオマーンへ行くための飛行機がキャンセルになってしまった。1次予選での直接対決をするオマーンとの大事な試合の前の事だ。やむなくホテルの結婚式場に使われるサロンで練習したのだ。これらは絶対忘れる事が出来ない。

予選以外ではアジアカップで中国では様々な事があった。ある試合で我々の代表団のバスが中国の1警備員のお陰で出発してしまいそうになり、スタジアムに置いてきぼりを食らうところだった。チョンジンでは過去の日中戦争の事で問題が起きた。日本国家斉唱では野次やブーイングが観客席から飛びかった。そういうピッチ以外の問題の中で、我々は中国を相手に北京でタイトルを制覇したのはまた格別な出来事だった。

2005年には大きな宿題が残っていた。ワールドカップの指定席を獲得する最終コーナーが待っていた。日本の歴史では1998年の時だけ予選を勝ち抜いて本大会出場を果たしている。プレッシャーが凄い。だが、私は人生でいつもプレッシャーに耐えてきた。だからこれはまたそのもう一つだ、という事だった。サッカーでの監督と安定性は組み合わされない。だが、私のような成し遂げなければいけないと言うミッションがここまで確実にさせることになった。

これらの異例な状況はこれだけではない。まだまだあるのだ。最後の戦いとなった場所は無観客のスタジアムだったのだ。報道関係者とカメラだけが入っていて我々が北朝鮮に勝った試合を見ていた。私はこのような状況は初めてだった。歴史的にも記録的な場面が完璧な結末で終わった。 良くも、悪くも、異例も、しかし刺激的でもあった・・・、間違いなく特別だった。心は踊り安堵もした私は言う:使命は果たした!今の目標はもう他の事で今まで以上に大きくなる事だ。

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