ジーコの部屋

Ritual do CapitaEntrar キャプテンの儀式

ピッチには右足から入る、下にはいつも同じシャツを着る、同じ場所に座る、試合には同じ時間に行く。

こういう事は選手やコーチ達、はてはサポーター達も持っている癖というかお呪いみたいなものが世界中のサッカーの中で存在している。このコラムでも既に幾つか話しに出てきている。ドミンゴ・ボスコを思い出す。

一つのクラブでも毎日のようにこうした話題は尽きない。フラメンゴでもピッチの外でも中でも変りは無かった。

80年代の始め、私達のチームは本当に強かった。負ける事はほとんど無かった。ブラジル選手権、リベルタドーレス杯に世界クラブ選手権を2年の間に勝ち取った。大変な仕事の結果であった。

あの1983年にはカルロス・アウベルト・トーレスがチームの指揮を取る事になってブラジル選手権に向かった。“カピッタ”は70年のセレソンで3度目優勝のキャプテンだった。選手としてはフルミネンセに始まり、サントスとニューヨーク・コスモスでもプレーした。彼はとても迷信家でもあった。

それを発見したのは彼がフラメンゴに来てからで、小さな出来事からのことだった。

マラカナンでコリンチャンスを相手にする大事な試合の前日だった。土曜日にはレクリェーションをやる予定だった。私とジュニオールはあるテレビの番組に呼ばれて行って、遅くなって更衣室で着替えていた。他の選手達はすでにグランドに出ていた。“カピッタ”は変だと思って私達を探しに来た。もっと遅れると思っていたらしいがそうではなかった。どっちにしても私とジュニオールは別にアップするように彼は指示した。それに問題はなかった。

翌日はフラメンゴがゴールの雨を降らせていた。私は2得点し、一つはフリーキックだが、後はアジーリオにモーゼルにエーデルが決めて5対1と言う圧勝をコリンチアンス相手にした。

相手はソクラテスが1点を返す。(ソクラテスは当時ドクター・ソクラテスと呼ばれていた)私達のサポーターの前で文句無しの勝利だった。

五日後、再びマラカナンでの試合があった。南米リベルタドーレス杯で相手はボリビアのブローミングだった。前日、カピッタは又更衣室へ私達の後に付いて来たが普通の日だった。彼は又私達二人に別にアップするように指示した。他の選手達もいたのだが。私達はボリビアのチームに7対1で勝って送り出した。私とジュニオールは、更衣室に探しに来るのを一つの“ツキ”を呼ぶカピッタの癖だということに気付いた。彼はそれを毎試合の前日にやることに労を惜しまなかった。25日にはグアラニー戦。その時に様子を見ることにした。前日、更衣室でトーレスが来るのを待っていたが、期待通りになった。2対0で勝ち、“儀式”に呼応した、少なくとも我々の指導者はそう思っているのだろう。そんな時に私達はカピッタに一つ企んでやろうと考えた。次の試合はヴァスコだった。マラカナンで行なわれるクラシック戦である。その週は二つのチームが対戦する事で街中のテンション段々高くなり盛り上がっていた。あちこちで色んな呪いごとが試合が近づくにつれ湧いてきていた。

そこで私とジュニオルはヴァスコ戦の前日トーレスの先回りをすることをフラメンゴのガベアの更衣室で決めた。彼は更衣室に入り、私達が居ない事で驚いた。彼は動揺しあちこち声を上げて探し回った。前日のアップも壊して・・・カピッタの儀式・・を封印するつもりだった。

彼は心配の絶頂に達していた。クラブのあちこちを探し回り最後には私達があそこに居たという情報に辿り着いた。居たには居たが、実際には隠れていたのだ。笑い転げて、怒られついでの勢いでグランドに飛び出し他のメンバーと一緒にアップしたのだ。カピッタは直ぐ後に出てきたが、落胆していた。もう魔法のお終いだ、と思っているに違いなかった。魔法も無かったために、総てうまく行き私達はヴァスコに2対1で勝つことが出来た。ブラジル選手権では5回だけ躓いたが、しかし3度目の優勝をカピッタの指揮のもとに制覇した。少なくとも彼はあの“癖”を捨てた!そして私達は別のもっと面白い癖をつけた;それはトロフィーを手にしてピッチを一周する“オリンピック・パレード”である。

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