ジーコの部屋

Bisturi salvador 救いのメス

1981年は私の人生でも最大に特別な年だった。フラメンゴファンにとっても同じような感じだったであろう。リベルタドーレス制覇や特にトヨタカップ・世界選手権制覇があった。あの頃を一緒に過した人達は決して忘れる事はない。だが、イギリス人たちを絡めたことはあの東京で行なったリバプールとの試合だけではない。今週はその面白くも苦い記憶が残る話をしたい。

一度このコラムで私が腫れ物が連続して体に出て苦しんだ話をした事がある。皮膚が化膿する厄介なものだった。その中で一度はフラメンゴとボカ・ジュニアーズとの親善試合でもあった。マラドーナ相手の試合だったが、彼らに対して人生の中で私が唯一ゴールを決めたのだったが、正直喜べなかった。ボールはネットに飛び込んで、アルゼンチン選手のスパイクはもろに私の腫れ物がある痛い所に命中していたからだ。あの当時は何故だか解らないが足や腕など6箇所も腫れ物が出来て苦痛な時で我慢するのが大変であった。

丁度シーズンの半ばでその腫れ物は当然私の練習や試合に明け暮れる日々の邪魔者となっていた。81年5月12日には伝説的なウエンブレイ・スタジアムでの親善試合が組まれていて、私には出場できない危険性もあった。丁度リバプールとの試合の数ヶ月前のことだった。しかし私はロンドンに行った。ただ、あの日セレソンの試合で完璧にプレー出来るかは解らなかった。

練習するにも困難であり我慢するのが辛かった。腫れ物を経験した人ならこの辛さを理解出来ると思う。腕の下に出来たのは寝る時にも邪魔になった。セレソンのドクターだったネイロール・ラスマール、この人は後になって私の膝の事でも世話になり、友達になったが、

彼は私の苦痛のドラマを見ていて解決する方法を提案した。それは私が受け入れるかの疑問を持っての事だった。 

「ジーコ、その痛みを取り除く方法は一つしかない。メスで切り取ってしまうのだ。だが、麻酔は掛けない。」

私は腫れ物を見た。でかい・・・そして腫れている、その痛みはどれ位なのか。しかし、イギリス人たちとの試合に出たい気持ちのほうが強くアセプトした。

「これを引き裂いてくれ。今の痛み以上のものは無い。」と私は言った。       

そこで、戦場を思わせる状態になった。幾人もの選手達がホテルの私の部屋に集まって押さえ込むのを手伝ってくれた。私の痛みは想像以上なものかも知れないからだ。お産の時もそれくらいなのか解らないが、そんな雰囲気に思えた。タオルを口にくわえて横を向いてドクター・ネイロールは一刀を加えた。時間的に1秒かそこらだったと思うが、痛みは大変強く酷すぎると思った。だが、麻酔を掛ける事になった。くわえたタオルをあまりにも歯で力一杯噛んで飲み込んでしまうのではないかと思った。だが、その後の気分は凄く安堵したものだった。苦痛の終焉だった。

ドクター・ネイロールはとても良い治療をしてくれ、私は通常の活動に戻る事が出来た。5月12日にはウエンブレイで試合をした。正に神秘的なスタジアムで我々のマラカナンのようなスタイルだった。そこに10万人以上の人々がブラジル対イギリスの試合を見るために詰め掛けていた。偉大な試合となり我々が私のゴールで1対0で勝った。あの試合はそれまでに我々のセレソンはその“神聖なウエンブレイの芝”でイギリスのチームに勝てなかったと言うタブーを破る事になったのだ。

セレソンにとって特別な日となった。試合の前に私が過した苦しい時間の後のゴールは私の為に特別にやって来てくれた。それにあの後イギリス人たちはあの年、更にブラジル人にしてやられる事になる・・・・・。

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