名選手列伝

Raul ハウー

ハウー

■選手名 ハウー
■本名 ハウー・グィリェルメ・プラスマン (Raul Guilherme Plassmann)
■ポジション : ゴールキーパー
■背番号 : 1番
■出生地 : パラナー州アノトニーノ市
■生年月日 : 1944年12月27日
■主な所属クラブ :
  • サンパウロFC (1965年)
  • : ナショナル (1965年)
  • : クルゼイロ (1966年~1978年)
  • : CRフラメンゴ (1978年~1983年)
■主なタイトル :
  • : トヨタカップ優勝 (1981年)
  • : リベルタドーレス杯 (1976年、1981年)
  • : ブラジル全国選手権優勝 (1980年、1982年、1983年)
  • : ブラジル杯 (1966年)
  • : リオ・デ・ジャネイロ州選手権優勝 (1978年、1979年、1979年特別開催、1981年)
  • : ミナス・ジェライス州選手権優勝 (1966年、1967年、1968年、1969年、1972年、1973年、1974年、1975年、1977年)
■その他のタイトル : : ミナス・ジェライス州杯(クルゼイロ ? 1973年)
経歴

ハウー・グィリェルメ・プラスマンはゴールキーパーとしてブラジルサッカー界で一時代を築いた人物です。彼は、1960年及び1970年代のクルゼイロと1980年代のフラメンゴという、ブラジルのみではなく世界サッカー史上に於いても偉大なる2チームに在籍したのです。然るべき時期に適切な場所で守護神としてこの2チームに大きな安心感を常に与えた彼は、正に運命づけられた人生を歩んだと言っても良いでしょう。

ハウーは傑出することなくサンパウロFCでサッカー人生を歩み始めました。言うならば、彼のプロとしてのデビュー戦は、5対0で大敗を喫した1965年のパルメイラスとのクラッシコ(ダービーマッチ、伝統的な大試合)でした。でも、運命はその彼に味方をして、ハウーを早々にベーロ・オリゾンテ(ミナス・ジェライス州の首都、クルゼイロの本拠地)へと先導したのです。クルゼイロのフェリーシオ・ブランヂ会長は、正GKトーニョのサブを探しており、サンパウロの友人であるヴィセンテ・フェオラ氏に相談をしたのです。すると、翌日にでもハポーザ(クルゼイロ)へと向かわせられる若手が居ることを伝えられました。

こうして、若きゴールキーパーは単なるチーム要員として、特別な歓迎も受けずにバーホ・プレット(クルゼイロのクラブハウス)に合流したのです。有り余る能力と素晴らしいポジショニング、更にはカウンターアタックを仕掛けられる秀でる術で、彼は徐々に信頼を勝ち取り、この非の打ち所の無いクルゼイロのチームで不動の座を完全なるものとして君臨したのです。クラブ在籍12年間でミナス・ジェライス州9冠を達成しました。彼の落ち着いた物腰にも関わらず、女性ファンには絶大なる人気を誇り、更には、トスタォン、ヂルセウ・ロペス、ピアッザとネリンニョから成るチームで、ディフェンス面において彼の堅実な守護神としての重要性を認識する男性ファンの支持も絶対的なものでした。

彼のクルゼイロでの最も重要な制覇は、1976年に手にした栄冠であり、それ以前にはブラジルのチームでは僅かにペレー率いるサントスのみが達成していた、リベルタドーレス杯での優勝です。決勝はアルゼンチンのリバー・プレートとの3試合による決戦で、南米の大会では普遍的に起こる困難な展開を最後まで強いられました。その後は、クルゼイロのあのファンタスティック(幻想的、空想的、素晴らしいさま)な世代の引退により、チームは解体の道を歩み始めたのです。ハウー自身も引退してパラナー州へと戻る可能性をも考慮したのですが、1978年にクラウジオ・コウチーニョ監督に、ジーコ、ジューニオル、レアンドロ等の若き選手で編成されたフラメンゴで、リーダー的存在としての経験を生かすべき移籍を説得されました。

1978年と1979年でのリオ・デ・ジャネイロ州選手権3連覇(1978年、1979年、1979年特別開催)の如く、タイトルが自ずとついて来たのです。彼が、フーブロネーグロ(フラメンゴ)・サポーターの英雄と化すまでに然程時間を要しませんでした。スペクタクルを提供しなくとも、インテリジェントで、規律を守る、有能なゴールキーパーでした。彼は素晴らしい精神的安定感を保ち、ディフェンス陣をリードしながら、当時の殆どのゴールキーパーに欠如していた特徴でもある、エリア内から飛び出す能力を持っていました。

ハウーは、最大なる適性を存分に披露しながら、更に3回に到るブラジル全国選手権制覇と、自己2度目となるリベルタドーレス杯を、1981年にチリのコブレロアとの3試合による決戦で制したのです。そして、トヨタカップでは、ゴールキーパーはイギリスのリヴァプールに失点を許さず、攻撃面でのジーコ、アヂーリオ、ヌーネスのタレント性に期待を委ねて、自己の大いなるタイトル・コレクションに新たなるトロフィーを添えたのです。

ハウーは誠実さも特長として持っており、インタビューでチームのミスを指摘するなど、話し過ぎるとの理由で、1982年のブラジル代表から省かれたとの噂すらあります。彼はある機会に、「練習は少なく、試合で存分に実力を発揮することを好む」と、認めたのです。テレ・サンターナ監督にとってはブラジルのスター軍団に召集しない十分な理由でした。そして、ハウーは引退時に、ワールドカップに一度も出場しなかったことが、サッカー人生に於いて最も寂しかった事実であることを認めました。

サッカー選手として現役を退いたハウーは、「TVグローボ」又は「SporTV」にて解説者として傑出しました。更に、彼は監督としての道も試みたのです。2003年には、ジュヴェントゥーデでマリーニョ・ペーレスのアシスタントを務め、マリーニョ・ペーレス監督退任後には正監督に就任しましたが、シーズン終了を待たずにしてガウーショ(リオ・グランデ・ド・スール)のクラブを後にしたのです。更に2004年には、ハウーはロンドリーナの役員兼監督の業務に就きましたが、結局、「RedeRecord」局とクリチーバの「ラジオCBN」の、解説者としての職へと戻りました。そして、2005年には、元ゴールキーパーはクリチーバ市長に当選したベット・ヒーシャ氏のスポーツ局長への誘いを受けたのです。

ミニ知識
  • *ハウーは、以前は黒、グレー又は白の何れかを使用していたゴールキーパー・ユニフォームの暗いイメージに、偶然ではあるが、終止符を打ったのである。1960年代、クルゼイロ対アトレチコ・ミネイロのクラッシコ(ダービーマッチ)で、審判が彼のユニフォームがガーロ(アトレチコ・ミネイロ)のユニフォームと区別し難いとの思い込みに対して、ハウーはサイドバックのネッコ選手からハイネックのブルゾン(ジャンパー)を借りて身に纏い、ミネイラォン・スタジアムの観客を驚かせたのだ。こうして彼はゴールマウスをシャットアウトし、サッカー史に彼の名を刻み始めたのである。
  • *ハウーは、以降は黄色のユニフォームをトレードマークとして、常に敵のフォワード陣を引き付ける催眠力を持っており、必ず自分が位置している場所へシュートを放つのだと強調していたのである。
  • *当時、クルゼイロのサポーター軍団は青と白の応援フラッグに黄色を加えたのである。そして、そのカラーは現在でも継続されている。
  • *ハウーはフラメンゴで、仲間達に接する口調と年齢から「Velho(親父)」のニックネームで呼ばれていた。
  • *1983年12月20日に行われた彼の引退試合「フラメンゴ対ハウーの友人選抜」では、当時の多くのクラッキ(天才、名選手)で編成されたチームで彼は38歳にして、最後に黄色のユニフォームを身に着けたのである。そして、ピッチを後にする際に、ハウーはユニフォームを脱いでネッコ選手に手戻したのだ。
  • *引退後、ハウーはスポーツ解説者となったのだが、彼の情熱は選手時代のストーリーを語ることでもあった。「SporTV」で解説者を務めていた時期には、元選手の「事情」を聞くために人の輪が出来ていた程だ。ヘナット・ノグェイラ記者は、これらの話を本にする企画を考案して、「Raul Plassman ? Historias de um Goleiro(ハウー・プラスマン ? ゴールキーパー物語)」がDBA社より出版された。

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