名選手列伝

Antunes アントゥーネス

アントゥーネス

■選手名 アントゥーネス
■本名 ジョゼー・アントゥーネス・コインブラ・フィーリョ (Jose Antunes Coimbra Filho)
■ポジション : フォワード
■背番号 : 9番
■出生地 : リオ・デ・ジャネイロ州リオ・デ・ジャネイロ市
■生年月日 : 1944年08月24日
■主な所属クラブ : CRフラメンゴ (リオ・デ・ジャネイロ州 ?1972年~1976年)
■ブラジル代表 1975年~1976年
■主なタイトル :
  • : フルミネンセ (リオ・デ・ジャネイロ州 - 1963年~1965年)
  • : アメリカ (リオ・デ・ジャネイロ州 - 1966年~1967年、1970年)
  • : オラリーア (リオ・デ・ジャネイロ州 - 1968年~1969年)
  • : クルゼイロ (リオ・グランデ・ド・スール州)
■監督として : オラリーア (リオ・デ・ジャネイロ州 ? 1984年)
■その他のタイトル :
  • : Negrao de Lima大会優勝 (1967年)
  • : グァナバラ杯準優勝 (リオ・デ・ジャネイロ州 ? 1967年)
経歴

ジョゼー・アントゥーネス・コインブラ・フィーリョは、大変有能な驚くべき瞬発力を持ち、スピードのある激烈なFDの選手でした。アントゥーネス家の長男として生まれた彼は、リオ・デ・ジャネイロ市北部キンチーノ地区のチーメ・デ・ペラーダ(草サッカーチーム)「ジュヴェンツーデ・デ・キンチーノ」の天才として知られておりました。弟のエドゥーとジーコに対してサッカーへの道しるべとなったにも関わらず、選手としてはサッカー史に於いて本来なら得るべき評価をされることはありませんでした。もしかしたら、彼のサッカー人生に対する不正行為の数々と幾多の壁が、サッカーへの失望感を抱かせたからかも知れません。

彼はアントゥーネス又は親しい仲間には「ゼッカ」と呼ばれていました。そのアントゥーネスはサッカー史上偉大なる選手の一人へとなったジーコに対して重要な教えを継承したのです。「彼は助言者であり、一人の兄としてだけではなく、第二の父として、私が目標とする師匠的存在でした。如何に彼がサッカーで苦しんだかを見ることで私自身が教訓を得ることができました。」と、ジーコは語っています。

ジーコは的確に言葉で表現しています。正に、アントゥーネスの苦難がジーコをサッカーへの導きに大きく憚ったのです。既にジーコの実兄のエドゥーもサッカー人生を選んでいたとは言えども、家族は末っ子が長男同様の苦悩に晒される事を恐れていたのです。

そんなアントゥーネス家の血筋にはサッカー魂が脈々と流れていました。父アントゥーネスが若かりし頃、アマチュアの勇ましきチームの得点を優雅に弁護し、フラメンゴの監督に誘われた事実は紛れもなく偶然の賜物ではなかったのだと言えるでしょう。ヴァスコ・ダ・ガマの熱狂的ファンであったパン屋の主人の拒否は、キンチーノ・ボカィウーヴァ地区で最も名の知れた一家が更なるサッカーとの縁を深めることを避けたのです。

1963年が始まると同時に長男「ゼッカ」はサッカー界で地位を確立し始めました。彼は19歳にして、既に自己の歩むべき道を求めつつありました。彼はクルゼイロ・ド・スール小学校を卒業後、ペードロ2世中学高へと進学し、その後は高校3年生まで終えました。しかし彼は、勉学に専念しながら、家計を手伝うために仕事もしていました。正職員としての籍を待ちながら、パートタイマーで、IBMの機械及び通常オペレーターとして就職しました。そしてこの期間に、彼の人生はサッカーへと傾いたのです。ここで注視すべき点は、彼はかって勉学を諦めずに企業経営及び経済学科を卒業して、ガーマ・フィーリョ総合大学の教授も務めました。

サラリーマン生活からサッカー選手への急変は一家の友人であるジョアォン・バチスタの説得によって果たされました。ジョアォンは子供の出産のために入院していた妻がいるにも関わらず、フルミネンセへ同行するために、勤務先まで連れに行ったほどでした。そしてゼッカは初めてその真剣さに納得したのです。その後ラランジェイラス(フルミネンセの本拠地)でアントニーニョ率いるフルミネンセのジュヴェニール・カテゴリーの練習に参加することになります。ジョアォンはアントゥーネス、後にはエドゥー及びジーコの仲介者も務めました。そして現実に至り、一家の良き友人でもあります。

アントニーニョは僅かに10分のみアントゥーネスに練習時間を与えました。されで、十分でした。少年は2度に亘りゴールネットを揺らしたのです。感銘した監督は若きフォワードを呼び、再度練習に訪れるように頼みました。アントゥーネスは、稼ぐ必要があり、サッカーは初期の段階では殆んどお金にならないから、父が反対であるとの理由で、話をはぐらかそうとしたのです。でも、アントニーニョが執拗に力説することで、アントゥーネスは監督と友人のジョアォンの要請を受け入れたのです。父に知られずに、アントゥーネスはフルミネンセで熱心に練習に取り組んで行きました。真実が解き明かされた時は既に遅すぎ、彼はサッカーを継続したのです。それは、1963年10月のことでした。

アントゥーネスのフルミネンセへの入団は、その年のジュヴェニール・カテゴリーの大会終盤と重なりました。翌年の1964年の大会では、彼はレギュラーメンバーの一員として19試合に出場する機会に恵まれて、20得点を挙げたのです。でも、本コラムの冒頭で述べた「passadas de perna(妨害)」曰く、彼に失望感を抱かせた苛酷な不意打ちによる事件が年を同じくして襲いました。アントゥーネス選手が東京オリンピックに出場するための「裏契約」を片手に、父アントゥーネスの署名を要求すべく、フルミネンセの役員が家を訪れたのです。勿論、役員は門前払いを食わされ…、アントゥーネス選手は招集されませんでした。

アントゥーネスは1965年06月08日までフルミネンセのアスピランテス(サテライト)でプレーをして、後期だけでも10試合に出場して10得点を記録しました。その直後に、初のプロ契約を交わしたのです。アントゥーネスは1965年の大会をフルミネンセの選手として闘い、その翌年にはアメリカへと移籍して、実弟エドゥーと攻撃コンビを組んだのです。正に二人は精錬されたペアを形成しました。エドゥー、アントゥーネス、ジョアォンジーニョ、エドゥアルドを有して、グァナバラ杯準優勝を果たした1967年のチームは、クラブ史上最強軍団の一つに挙げられています。1968年までアメリカに所属したアントゥーネスにとって、正に絶頂期でもありました。その後、オラリーアへ移籍をしたのです。

そして、1970年にアントゥーネスは再びアメリカへと戻ったのです。以後、最終的に現役を退く前に、更にポルト・アレグレのクルゼイロのチームにも在籍をしました。その後、陸軍体育学校を首席で入学して、サッカー指導者として卒業したのです。1984年にはオラリーアの監督に就任するも、平行して企業経営及び経済専門家としての仕事も持っていました。彼はガーマ・フィーリョでも講義をし、更にはジーコとも仕事をしたのです。そして、1997年01月08日に仲間達とソサイティー・サッカーをやっている最中に驚愕的な心筋梗塞に見舞われてこの世を去りました。彼は、インニャウーマ墓地に51歳で埋葬されました。

ミニ知識
  • *名言 - 「選手の最大なる能力は、決意と勇気を持って、チームメイトを支援しながら監督の指示に従い、ピッチ上で勝利への強い意欲を燃やすことである。そして、後は運と自分を信じること…」(ジョゼー・アントゥーネス・コインブラ・フィーリョ)
  • *彼は1965年に、以前マラカナン・スタジアムで観た3大フォワードの名を挙げていた。「ペレー、ガッヒンシャ、プスカス」の順である。でも、彼自身はアメリカ在籍時代にリオ・デ・ジャネイロ州最優秀フォワードとしての評価を得ている。
  • *キンチーノの実家近隣で行われる、弟達や友人を会しての仲間内のペラーダ(草サッカー)では、彼は年下を相手にフィールドでプレーをするのは芳しくないとの理由で、日頃はゴールキーパーを務めていたのである。
  • *彼は、第一回グァナバラ州選手権に加盟していたサォン・ジョールジェに入団して、マドゥレイラのブロックで準優勝を果たしている。不動の背番号10番を背負って、同選手権8試合で20得点を挙げている。
  • (グァナバラ州は1975年03月15日にリオ・デ・ジャネイロ州と合併され、リオ・デ・ジャネイロ州となった。)
  • *彼は口癖のように、軍隊時代には陸空軍師団を選考しており、敵の暴力行為には慣れており、恐れていないのだと語っていた。彼はMarechal HermesとDeodoro地域間に所在するVila Militarに入隊し、パラシュート部隊として8回落下している。(ブラジルには男性国民に対して徴兵制度が現在に到り

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