名選手列伝

Geraldo ジェラルド

ジェラルド

■選手名 ジェラルド
■本名 ジェラルド・クレオファス・ヂーアス・アオヴェス (Geraldo Cleofas Dias Alves)
■ポジション : ミッドフィルダー
■背番号 : 8番
■出生地 : ミナス・ジェライス州バラォン・デ・コカイス市
■生年月日 : 1954年04月16日
■主な所属クラブ : CRフラメンゴ (リオ・デ・ジャネイロ州 ?1972年~1976年)
■ブラジル代表 1975年~1976年
■主なタイトル :
  • : リオ・デ・ジャネイロ州選手権優勝(フラメンゴ ? 1972年、1974年)
  • : ホッカ杯優勝 (ブラジル代表 ? 1976年)
  •  
  • : アトランチコ杯優勝(ブラジル代表 ? 1976年)
■その他のタイトル :
  • : グァナバラ杯優勝(フラメンゴ ? 1972年)
  • : リオ・デ・ジャネイロ州選手権 3rdステージ優勝(フラメンゴ ? 1974年)
経歴

3千万人強のフラメンゴサポーターでさえもジェラルド・クレオファス・ヂーアス・アオヴェス選手の存在を知りません。登録選手名のジェラルドという名前でインターネットで検索しても彼の記録は殆んど見当たりません。このジェラルド選手は1976年8月26日に、扁桃腺の手術中に心不全により当時22歳という若さで他界しました。その出来事が起きなければ歴史は大きく変わっていたことでしょう。

巧みなドリブラーだったジェラルドは、「moleque(やんちゃ)サッカー」と素晴らしいボールコントロール技の持主でした。何時も楽しく振るまっていて、常に口笛を吹いていてそんな彼は、仲間から「assoviador(口笛を吹く人)」のニックネームをつけられていました。ミナス・ジェライス州の田舎町バラォン・デ・コカイス市からフラメンゴのジュヴェニール・カテゴリーに入団してジーコと出会いました。2人が意気投合して親友となるまでに時間はかかりませんでした。更に、ピッチ内でも二人の意思の疎通は完璧でした。壁パスなどは容易に繋がり、お互いの調和がゴールを生み、自ずと結果をもたらしました。

1970年には、既にフラメンゴの下部組織に2人の将来有望な選手が存在すると言われていました。それは正に、ジーコとジェラルドのことだったのです。でも、ジーコが選手として確実な道を歩む一方で、ジェラルドは健康面で回り道を余儀なくされました。1972年にジーコがレギュラーとしてリオ・デ・ジャネイロ州選手権を制覇した時に、相棒の彼は依然としてサブに甘んじていました。

そして1973年に転機が訪れたのです。ジェラルドはレギュラーとして起用されるようになり、シーズンを通じて18試合に出場しました。しかしタレント性に溢れるも、残念ながら身体的安定性に欠けていました。1974年にはレギュラーの仲間入りをして、フラメンゴのユニフォームを着て合計59試合に出場するも、頻繁に途中交代を強いられてました。同じ年、彼のプロ初となる得点は1月30日フラメンゴが4―0で勝利したゴイアスのヴィーラ・ノーヴァ戦で決めました。そして、ホーム・マラカナンでのファーストゴールはフラメンゴが5―1で圧勝したコリンチャンスとの親善試合でした。ジェラルドが「プレーをしながら」自己2度目、そして最後となったリオ・デ・ジャネイロ州選手権制覇では、僅かに2得点しか記録することができませんでした。

ジェラルドの技術能力は、フラメンゴを越えて既に広く認知され1975年にはオスヴァルド・ブランダン監督に召集されて、ブラジル代表の一員としてコッパ・アメリカに参戦しました。代表ではレギュラーメンバーとしてペルー戦2試合を闘いました。その年、フラメンゴでは62試合に出場して7得点挙げたのです。

1976年、フラメンゴでレギュラーの座に定着し、ブラジル代表にも再招集されていたジェラルドにとって、残念ながら短く悲劇的な年となったのです。年明け「amarelinha(ブラジル代表の愛称)」に選出されました。ブラジル代表は先ず2月にDistrito Federal (ブラジル連邦区)の選抜チームを1―0で下し、直後にホッカ・カップとアトランチコ杯でアルゼンチンと対戦して2―1で勝利を収めました。そして5月にはこれら2大会の試合で、ブラジル代表はマラカナン・スタジアムでアルゼンチンに2―0で勝ったのです。そしてメキシコの「Universidad」と親善試合をこなして、6月9日にはマラカナン・スタジアムでジーコと共にプレーをする機会に巡り合い、パラグアイを3―1で下して、チャンピオンとして栄冠を祝ったのです。そして、これがブラジル代表のユニフォームを纏っての7回目であると同時に最後の試合となりました。

ジェラルドは1976年にはフラメンゴで30試合に出場して3得点を挙げました。最後となった彼の得点は、8月14日にマラカナン・スタジアムで開催されたリオ・デ・ジャネイロ州大会2ndステージでフラメンゴが3―1で勝利したオラリーア戦です。他の2ゴールはルイジーニョとトニーニョが挙げました。

オラリーア戦でゴールネットを揺らした一週間後、ジェラルドは手術台でアナフィラキシー(抗原抗体反応の一つ)・ショックによる心不全で永久に帰らぬ人となったのです。フラメンゴがフォルタレーザ市へ遠征中の出来事でした。チームは前日、セアラーを2―0で下していました。ジェラルドは、リオ・デ・ジャネイロに扁桃腺の手術を施すために残っていたのです。この悲劇を知らされたフラメンゴのチームは落胆的な衝撃を受け、数選手は意思消沈に陥り、チームは即座にリオ・デ・ジャネイロへと引き返したのです。

ミニ知識
  • *ジェラルドはプロとしてフラメンゴで合計169試合に参戦して、4年間で14得点記録している。ブラジル代表では7試合に出場したが得点は挙げていない。
  • *当時の評論家が彼のボールに対する巧みさをペレと比較したことで、ジェラルドが如何にテクニックに長けていたかが伺える。
  • *ジェラルドとジーコの親交は深く、頻繁にキンチーノのアントゥーネス家を訪れる仲で、アントゥーネスさんとマチウデさんの実の息子のように付き合っていた程だ。ジーコの父は、「私の褐色の息子」だと口癖のように語っていた。
  • *ジェラルドは8月26日に手術を受ける予定ではなかった。手術に対して恐怖感を抱いていた彼は、ジーコが隔膜の歪みを矯正した日と同じ日に扁桃腺の手術をする筈だった。でも、彼は当日現れず、ジーコだけが予定通りに手術を施したのである。
  • *ジーコはジェラルドのメモリアル(追憶)ゲームに2回参加している。1試合目は、バラォン・デ・コカイス市に住んでいた選手遺族への募金のために10月06日に行われ、2―0でフラメンゴが勝利したブラジル代表との親善試合である。そして2試合目は、ジェラルドの墓建設費を募る目的として、バラォン・デ・コカイス市で開催され、ジーコが1得点挙げるも、フラメンゴが2―1で敗北を喫したフラメンゴ・マスターズ対ミナス・ジェライス州マスターズ戦である。

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