経歴
ジョゼー・カルロス・ネポムセノ・モーゼルは、1980年代に輝かしい活躍をし、フラメンゴの黄金時代の一員です。ヘディングでの得点能力の高いDFのモーゼル選手は、ブラジル、フランス、ポルトガル、日本の4カ国でサッカー歴を築きました。彼は数多くのタイトルをとりました。
多くの人々はご存知ではないでしょうが、リオ出身モーゼルの全てはボタフォゴでスタートしました。しかし、ガッヒンシャ、ニウトン・サントス、ヂヂ等の選手を有したチームを後にし、モーゼルは新天地へ移籍しました。当時若々しく1.87cmの長身の彼は新天地のフラメンゴで実力を開花しました。彼はフラメンゴ史上、偉大なるDFの一人だと見做されている人物でもあります。
モーゼルが1980年にフラメンゴへと移籍をした当時、DFのポジションには、1981年に「闘争心の神」の名を授かったかのホンヂネーリと、偉大なるマリーニョが現役でした。彼は移籍初年度には、僅か09試合のみに出場をして、サブの立場でありながらも、ブラジル全国選手権覇者の一員として終えました。
トヨタカップへ進出、リベルタドーレス杯出場権を得た、クラブ史上初の全国選手権制覇でした。1981年が開幕する中、モーゼルはチーム内でのレギュラー争いに挑んでいました。シーズン12試合目に、彼はその年初めてピッチに立ちました。その時点では、ルイース・ペレイラとシェヴォレッチ選手の存在もありました。しかしモーゼルは徐々に自己地位を確立して行きました。1981年中旬にはチームのレギュラーとなり、リバプール戦でも貢献しました。その年、47試合に出場して02得点を挙げました。初得点は、08月17日の3―0で勝利したオラリーア戦。
フラメンゴでの3年目、彼はマリーニョ又はフィグェイレドの両者と交代をしながら、シーズン全55試合の内34試合に出場を果たしました。翌年には、ほぼレギュラーとして40試合以上を闘ったのです。
フラメンゴを訪れてから7年後、292試合14得点の実績と、その名を全国的に知らしめたモーゼルは、ポルトガルの地へ向かいました。そしてポルトガルの伝統的クラブであるベンフィッカへ移籍しました。ベンフィッカでの非の打ち所のない彼の活躍ぶりが評価され、ブラジル代表へ召集されて1990年のイタリアW杯出場へ導いたのです。その4年後、怪我により代表欠場なければ、彼はきっとアメリカの地でブラジル代表の一員として4度目の優勝に輝いていたことでしょう。
ベンフィッカで、モーゼルは守備力とヘディングでの得点力に対する実力を発揮しました。ベンフィッカ・サポーターの心をつかみ、サッカー歴にタイトルを重ねました。そして、彼は新たなるチャレンジを求めてチームを離れたのです。W杯開催年の1990年には、フランスに渡り、オリンピック・マルセイユへと移籍しました。新チームでも彼は再度際立った活躍で、当時のヨーロッパ主要クラブの一員としてウイニングランを繰り返しました。Basile Boli選手と組んで、彼自身は大きな壁という異名を命名されました。
1993年には、フランスリーグ三連覇の実績と共にオリンピック・マルセイユを後にしました。彼は更なる挑戦と、数々の栄光を共にした古き戦友と再会すべく再度ポルトガルへと戻って2シーズンに亘りプレーをしたのです。そして、1995年にはジーコがテクニカル・アドバイザーを務める鹿島アントラーズへと移籍をしました。モーゼルはジーコと共に1996年にはJリーグ制覇を成し遂げました。
モーゼルとポルトガルの親密な関係が、ピッチを後にした彼をかの地へと導きました。リスボンでレストランを開業して、食業界の事業家として新たな人生をスタートさせました。正に彼とは関係した職種であり、何故なら、現役時代には敵のフォワードに消化不良を起こさせる存在だったモーゼルにとって…、絶好の汚名返上の機会であり、彼は見事に成功を成し遂げました!