名選手列伝

Jorginho ジョルジーニョ

ジョルジーニョ

■選手名 ジョルジーニョ
■本名 ジョルジェ・デ・アモリン・カンポス
■ポジション : 右サイドバック、ボランチ
■背番号 : 2番
■出生地 : リオ・デ・ジャネイロ州リオ・デ・ジャネイロ市
■生年月日 : 1964年08月17日
■主な所属クラブ :
  • : アメリカ (リオ・デ・ジャネイロ州 - 1978年~1983年)
  • : CRフラメンゴ (リオで・デ・ジャネイロ州 - 1984年~1989年)
  • : バイヤー・レバクーセン (ドイ - 1989年~1992年)
  • : バイエルン・ミュンヘン (ドイ ? 1993年~1995年)
  • : 鹿島アントラーズ (日本 ? 1995年~1998年)
  • : サンパウロFC (サンパウロ州 ? 1999年)
  • : ヴァスコ・ダ・ガマ (リオで・デ・ジャネイロ州 ? 2000年/2001年)
  • : フルミネンセ (リオ・デ・ジャネイロ州 ? 2001年)
■主なタイトル :
  • : ワールドカップ優勝 (ブラジル代表 ? 1994年)
  • : ブラジル全国選手権優勝 (フラメンゴ - 1987年)
  • : ブラジル全国選手権優勝 (ヴァスコ・ダ・ガマ ? 2000年)
  • : ブンデスリーガ優勝 (バイエルン・ミュンヘン ? 1994年)
  • : Jリーグ優勝 (鹿島アントラーズ ? 1996年、1998年): リオ・デ・ジャネイロ州選手権優勝 (フラメンゴ ? 1986年)
■その他のタイトル :
  • : コッパ・メルコスール優勝 (ヴァスコ・ダ・ガ ? 2000年)
  • : ヤマザキナビスコカップ優勝 (鹿島アントラーズ ? 1997年)
  • : 天皇杯優勝 (鹿島アントラーズ ? 1998年)
  • : ワールドユース準優勝 (ブラジル代表 ? 1983年)
  • : ソウルオリンピック銀メダル (ブラジル代表 ? 1988年)
  • : Jリーグ最優秀選手賞 (鹿島アントラーズ ? 1997年)
経歴

仮にレアンドロ選手を大御所に指名するのであれば、ジョルジーニョ選手(ジョルジェ・デ・アモリン・カンポス)は、フラメンゴ史上最大なる右サイドバックだと言っても過言ではないでしょう。彼はこのポジションに於いて、フラメンゴサポーターの心に残る選手となりました。フラメンゴには、数多くの右サイドバックの選手が存在しました。シャルレス・ゲッヘイロ選手の様に、サポーターの尊敬を勝ち取り、タイトルを手にした選手もいました。しかしどの選手も、ジョルジーニョに比例できる存在ではありませんでした。

多くの皆さんはご存知ではないでしょう。ジョルジーニョとクラブでの一体感が強いにも関わらず、彼自身はフラメンゴの下部組織からの生え抜きではないのです。最終的にはフラメンゴでプロへの道が実現化できましたが、リオ・デ・ジャネイロ市のグァダルーペ地区出身の彼を、発掘しプロへと育てたのはアメリカのチームでした。ジョルジーニョはジュニオーレス・カテゴリーの最後の歳にアメリカを後にしました。そしてフラメンゴへの移籍が彼を、その後のブラジルサッカー界で飛躍させるきっかけとなりました。

ジョルジーニョは、13歳の時にアメリカのディフェンダーとしてテスト入団したのですが、身長が無かったために、即サイドバックへとポジションを変更されてしまいました。ジュヴェニール・カテゴリーでは傑出した存在でしたが、ジュニオーレス・カテゴリーへの昇格時には、戦力外通告の危機に立たされてしまいました。その時、ジーコの実兄であるエドゥーが、ジョルジーニョのずば抜けた身体能力と、機敏さと多才さを発揮しつつあった彼に賭けたのです。勿論、エドゥーが後悔することはありませんでした! そして、同年の1983年に、ジョルジーニョはブラジルユース代表に選出され、フラメンゴとヴァスコ・ダ・ガマの目に留まりました。ほぼヴァスコ・ダ・ガマ一家でありながらも、彼本人はフラメンゴ魂が勝りガーヴェアへの道を選びました。

ジョルジーニョは、黄金世代のモーゼル、アヂーリオ、ジーコ、レアンドロ(右サイドバック)等の当時のスター選手で構成された常勝軍団のフラメンゴに入団しました。運命は20歳の若人に成功を導いてくれました。当時のレアンドロは、深刻な関節症を患っていました。その為、サイドバック断念をして、モーゼル選手とペアを組むべくディフェンダーへとしてピッチに出ました。ジョルジーニョは訪れたチャンスを逃しませんでした。彼は背番号2を背負い、5年間に亘り不動のレギュラーとして1986年のリオ・デ・ジャネイロ州選手権と、1987年のブラジル全国選手権の制覇に多大なる貢献をしました。その功績が認められて、1987年と1988年にはオリンピック代表にも招集されました。その後、彼は1989年にドイツへと旅立つ事になりました。

バイヤー・レバクーセン(ドイツ)では、新たなる現実と直面しました。監督は、今のポジションでは、彼の機敏性に長けた才能を生かせないと判断し、ジョルジーニョを中盤へと変更しました。彼に名選手として定着するチャンスを与え、3シーズンを闘い新たなポジションを確立しました。その後、バイエルン・ミュンヘン(ドイツ)に移籍した初年度1994年に優勝を達成しました。

ジョルジーニョは、クラブでの活動と平行して、ブラジル代表選手としても確立しつつありました。1990年のW杯には代表選手として参戦しました。セレソンのユニフォームを背負っては、サイドバックとして活躍していました。彼にとって二つのポジションを両立させるのは、何も問題はありませんでした。正にその逆とも言えるでしょう。ミッドフィルダーとしてブンデスリーガで優勝を成し遂げた同じ年に、彼はサイドバックとしてW杯チャンピオンに輝いているのです。これらの実績が彼の多才さを物語ります。

W杯終了後にジョルジーニョは、旧友であるジーコ(当時鹿島アントラーズ在籍)と再会する機会がありました。日本でプレーすることを説得されて、彼はまた、チャレンジャーとして鹿島アントラーズと契約をしました。そしてジョルジーニョは、輝かしい実績に更なる二つのタイトルを加えました。遥か遠き国の日本で、約3シーズン半を過ごしました。その後母国へと戻った彼は、先ずサンパウロに在籍、そして2000年にはヴァスコ・ダ・ガマの一員として2度に亘りウイニングランを体験し、最後にフルミネンセのユニフォームを纏い、引退を決断したのです。

ミニ知識
  • *彼は、フラメンゴで246試合に出場して、挙げた得点は僅かに8ゴール。勿論、各アシストが0.5ゴールとカウントされるのであれば、この数字は大きく変わるでしょう!
  • *彼の初めてのニックネームは、アメリカ時代にディフェンダーのポジションに対する願望をからかって付けられたジャイアントである。
  • *彼の将来の夢は、経営に携わり、フラメンゴのようなクラブの発展に貢献することである。
  • *ブラジル代表では71試合に出場して6得点をマーク。更に1987年と1988年にはオリンピック代表としても11試合を闘っている。

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