ヒストリー 経営者像

ジーコはサッカー選手としての才能の他に、ビジネスに対する深い洞察力も子供の頃から持ち得ていたようだ。幼い頃の彼のニックネームは、あのディズニーのキャラクターである"ドナルドおじさん(金持ちのキャラ)"であった。このキャラのように自分の貯金箱にコインをいっぱいにつめこんで、まったりと管理していたからである。どんな小銭でも大切に、いざという時にお気に入りのハニーパンやメンコを買える様に貯えていたのである。このきちっと物事を管理するという性格は彼の特徴のひとつである。これは彼自身の出場したゲームや自らのゴールをすべて細かく記帳したノートを、幼少の頃よりずっと持ちつづけていることからも明白である。

現役時代には、この企業家としての才能はあまり目立ったものではなかったが、現役引退後に確実にその才能を開花させていった。結果として現在5つの企業のオーナー又大株主である。(CFZ do Rio、 CFZ do Brasilia 、 Zico Participacoes; 、boutique UDIFLA 、Lanchonete)

『企業家』あるいは『事業家』という言葉の意味を辞書で引いてみると、ジーコには現役時代にも偉大な事業家の才能が隠されていて、後の成功に寄与している事に気づくであろう。 『物事を深く先案し、我慢強く、時には大胆に行動する。そして常にイニシアチブを取る。』 現役時代の彼はまさに『企業家』であった。持って生まれた才能に関しては、言うまでもないが、"完璧な技術へのあくなき追求とその構成力"・"相手バックをドリブルで打ち負かす為の様々な工夫又は想像力"・"困難な時の決断力"等が他のプレーヤーとは大きく違っていたのである。さらに彼の特異点として、その"リーダーシップと洞察力"がきわだっている事があげられる。この全ての力をいかんなく発揮し'67年より'94年まですばらしいキャリアをまっとうしたのである。この同時期に他の選手達のプロとしての権利を守る為の運動も幅広く行い、最終的には選手会の会長も務めている。

ジーコの仲人で元フラメンゴ役員のジョルジ・エラルは、ジーコの現役時代のピッチ外での成功を次の様に語っている。

"私はジーコを13才の頃より知っていて、いわば自分の息子の様な存在である。スターとしてピッチ内での数々の偉業の他に、ピッチ外で見せた事業家としての彼のセンスにも大きく魅了されたものだ。プロ選手というものは一度成功し特権を与えられた後に、人生の中で"大きな賭け"または、"チャレンジ精神を発揮し新たな取り組み"をすることはなかなか出来ないものである。ジーコの場合はピッチ外の事にも常に興味を示し、その経験をピッチで活かす事に非常な才能を見せていた。この様なシーンをクラブ役員として又は友人として長年見続けて来て、そのリーダーシップも含め大変感心させられたものである。ピッチ内でのジーコは生まれながらのリーダーであり、フラメンゴの勝利がどの様な影響を各方面にもたらすかを確実に理解していた数少ないプレーヤーであった。しかしながら、このリーダーシップを誇張したりするところは全くなく、逆にチームメートの為に戦い、常に犠牲的精神で物事に向かっていっていた。自分の行動や存在の重要さを把握し、模範的な態度で接していた。これらの美徳の積み重ねが、現在のCFZのオーナーとしての成功といえるであろう。このままで行けば、同分野で彼はますます成長していくだろう。私のキャリアの中で、彼とかかわりを持てた事を心より誇りに思う。"

さらに、'94年の現役完全引退した後にも、新分野でさらなるチャンスがおとずれる。最初のステップは'90年の実質的な現役引退の後、ブラジル国スポーツ庁初代長官となったことである。大臣という肩書きで、全く新しい分野で現役時代の経験を生かしながら必死にゴールを追い求める姿。この時期の彼のゴールとはブラジルにおけるスポーツのさるなる発展、選手達の労働条件の改善にあった。長年の彼のパートナーでもあるアントニオ・シモーエス氏の協力もあり"ジ-コ法案"プロジェクトが打ち出される。これにより"パス(クラブの選手に対する保有権)制度の廃止"、"各クラブの法人化"等が歴史上初めて本格的に取り上げられたのである。後にこの2つの論点は、別の法案の中でも基本的論点となったが中身は全くジーコが作成したものにかわりなかった。

管理者としてのアルツール

スポーツ庁長官としての任が1年4ヶ月間のみであったのは、政治面に於いてブラジル・スポーツ面での取り組みの重要性が、あまり理解されていない為になかなか前に進まなかった事、さらには、この取り組みが逆に政治面で各個人の私利私欲に利用されるというブラジルの悪い面が出て来てしまった為である。ジーコは自身で身を引く決意をしたのである。その後もリオに於ける政治的な仕事のオファーも数多くあったが、ジーコは自分の範疇ではないと拒否し続ける。そして'91年5月に"日出ずる国"のサッカーの発展に寄与すべく、旅立ったのである。

日本に於いて住友金属(後の鹿島アントラーズ)のチームで、ジーコは数々の美しいゴールをあげたが、その貢献はピッチの外でもみる事が出来た。チームをプロ化する作業やリーグ化も第一段階にあった為に、様々な面で彼の存在は重要であった、"優れた才能"プラス"洗練されたセンス"を持って、ジーコは日本でサッカーが国民的な人気を興す手助けに多大な尽力をする。スタジアム建設、マーケティング又大会運営に至るまでを、ノウハウと経験による貴重なアドバイスを提供したのである。その意味ではブラジルで果たし得なかった夢を日本で達成出来たといえよう。

初年度は妻のサンドラはまだブラジルに残り、ジーコは単身日本での孤独に耐えていた。文化・習慣の違い、言葉の壁全てがジーコに重くのしかかっていた。しかしながら、この期間にジーコは昔からの夢であった1つのプランを実行に移す決断をする。そのプランとは自分のサッカースクール(センター)を持つ事であった。実兄のエドゥーが面倒を見ていた、"ノーヴァ・ジェラソン"という少年チーム(ジーコ自身'80年代よりエドゥーを手伝いこのチームのヘルプをしていた)を母体としてのサッカースクール作りである。電話で土地購入の件などの直接的な指示をどんどんしていった。そして'93年に始まった作業が'95年1月20日に完成する。リオ市の守護聖人である聖セバスチャンの祭りの日と重なり、ネーミングもTV(TV局)の一般公募によりリオデジャネイロ・S・Eと決まった。

顧問弁護士でもあり、親しい友人でもあるアントニオ・シモーエス氏は"ジーコ"から"事業家アルツール・アントゥネス・コインブラ"への変容を次の様にのべている。

"ジーコとの付き合いは25年以上にもなるが、その中で彼の現役時代には見られなかった特性が引退後様々な形で現れて来た。特に物事に関するインテリジェンスにとんだ視点、センスの良さやバランスが決断に含まれている点である。最初に彼が"事業"という新しい分野に乗り出す事に関しては、多少の危惧の念があった。というのはサッカーという、自分自身の感情がむき出しになるスポーツの世界で長く生きてきた彼の様な人物が、その決断等に非情なまでのクールさを必要とされるビジネスの世界にうまくついて行けるかどうかということである。どの道ビジネスで成功をおさめている人々は、何らかの形で長年その世界との付き合いをもって感覚的に理解しているものであるが、ジーコの様に全く別の分野から飛び込んでくる者は問題を多く抱えてしまう場合が多い。当初は彼自身かなりとまどったと思うがすぐに慣れ、特に"ノー"といえるようになった事が大きな成長であったと思う。今日、私は彼に事業家としての優れた点を多く見る事が出来る。しかしながら、このビジネスの道が本当に彼がモチベーションを感じる事であるかどうかは疑問である。少なくとも日本に於いて、ピッチサイドで行なっている彼の仕事面のほうが、よほど喜びを感じているのではないだろうか。いずれにしても常に新しい事に全力でチャレンジするという現役時代よりの彼の生き方に変化はない。引退後すぐに政治の世界に飛び込み、後日本へ行き、現在まで日本で非常に重要な役割を得ている。ジーコの天より与えられた道であるとしか思いえないのである。"

ジーコセンターの設立は第一ステップであった。その後幾多の困難を乗り越えて、自身がスポーツ庁長官時代に打ち出した"クラブの法人化"をブラジルで初めて自らのクラブでなしとげた。'96年7月にはリオデジャネイロ・S・Eの名称をめぐり企業名登録で問題が起こった。結果的には名称変更をよぎなくされる事になり、98年にクラブはCFZ DO RIOと当初より"DO RIO"を残す形で再度登記する。'97年にCFZはドゥキカシエンセを1-0で破りリオ3部リーグ優勝を勝ち取り、これがクラブの初タイトルとなる。

この様に自らのクラブがリオに於いて力をつけている間も、ジーコは日本での仕事も継続して行なっていた。現役引退後もアントラーズに於いてテクニカル・ディレクターとして、クラブの強化プランに直接的に関与していくのである。アントラーズの役員として国内リーグ4度の優勝に貢献し、'96年より再びブラジルに拠点を移しながらも年に4回は日本で職務をはたすという激務をこなして行く。また、日韓共同開催となったワールドカップ2002に対しては、非公式ながらも自分のネットワークを使い尽力する。特に地元鹿島でのマッチメークや、参加国のキャンプ地としての誘致に、その尽力は大きな結果を残した。この鹿島アントラーズの役員としての義務は、その後日本代表チーム監督の就任を期に終了する。

現在CFZ DO RIOはブラジリアにも拠点を持ち活動している。そしてジーコはフラメンゴを愛する心も今でも持ち続けている。しかし、この心のチームも組織力の低下による混乱とさらにリオ・サッカー界を襲う政治力が影響して最低の状態となっている。ジーコはこの事で心を痛める。自らのクラブの拠点をブラジリアにも移したのはその為である。この試みは成功し'99年8月1日ブラジリアに設立以来地区リーグを全勝でかざり(2002年)2003年ブラジルカップに参戦した。この年3位となり初めて全国選手権セリエCを経験することになる。