インタビュー

マウロ・ガルヴォンのインタビュー 

[2009.02.05]

昨年末に、サイトがインタビューした時、マウロ・ガルヴォンは2003年にバスコでスタートして、ボタフォゴ、ナウチコ とヴイラ・ノヴァを通じて監督のキャリアを積んだ。
そして監督としての仕事を再スタートする為のオファーを待っていた。

ブラジルで最高のDFのうちの1人であった頃の平静で、急いではなく、良いチャンスを待っていた。 2009年の初めに、新たなチャレンジのオファーを受けた。ガルヴォンは、彼がアイドルであったクラブの1つ、そして今年リベルタドーレス杯に出場資格が与えられた、グレミオのサッカー常務取締役になる招聘を受け入れた。

サイトのインタビューでは、元DFは監督としての仕事、バスコの2部降格やジーコとプレーしていた時代について語る、そして彼が世間に認められたポジションでのベストプレイヤーを示す。

Q:偉大なプレイヤーであったというあなたの事実は、監督としての仕事に対して大きな期待を持ってますか?

人々は、最善の結果となるように待ちます。しかし、時には、クラブには構造を与えることができず、結局ジレンマが生じてきます。しかし、私は落ち着いています。私は今まで自分の経験となったいくつかの良い仕事をしてきました。今、私は南部のクラブで働いています。そしてリオデジャネイロで他の仕事があります。時間と契約があると、落ち着いて仕事ができます。締結されたことにおいて遵守されます。良い結果を即座に出す必要があるブラジルでは、それは困難であります。

Q:どのようにあなたの監督としての仕事を評価しますか?

比較的よかったです。私は2003年にアントニオ・ロペスのアシスタントでした、その後私はバスコを指揮し14位で終わりました。当時24クラブでしたので、あまり上位ではないが、下位でもありません。途中での仕事を引受けるのは簡単ではありません。しかし良い経験でした。その後ボタフォゴに所属しました。私は良かったと思います。以前選手として活動した2つのチームを率いました。年明けに仕事をスタートして、好きな選手と契約ができれば良いのですが。優勝を目指して平静な州リーグをして、良い段階で全国リーグを始めること。ただそれは長年活動している監督にしか起こりません。

ブラジル代表時代のマウロ・ガルヴォン:2つのワールドカップ・1つのオリンピック出場と1989年のアメリカ・カップ優勝

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Q:あなたがアイドルであったバスコについては?

ブラジル選手権での2部降格をどのように受けました? 最近、バスコはタイトル争いはせずに、リーグに参加しているだけです。そういう事がこの状況に近づかせてしまいます。私が居た頃からそうでした。過去にはフラメンゴが危なかった。そして、ボタフォゴ、パルメイラスとグレミオは降格しました。バスコは難しいクラブです。別の政策方式で複雑です。分裂がありましたのでそれが妨げとなりました。選挙は行われずに結局取戻しでした。本当は、12月には新しい役員が入るはずです。それから計画をたて始めます。たとえ前の計画がよくなかったとしても、衝突状況になります。なんとなく空虚があります。誰が指導しているのか、わかりません。そしてバスコは2回も監督を変えました…全てが2部降格への招待。選手達は集中できず、そしてブラジル選手権は非常に困難です。多分、それほど多くの変化がなければ、バスコは倒れなかったでしょう。A役員またはB役員とは言いませんが、もっと冷静になれたでしょう。コリンチャンスは、また別の話ですが、回復して見本となります。

Q:ピッチの中でジーコとの対決はどうでした?

私はインテルナショナルとボタフォゴでプレーしていた頃に彼と対戦しました。ジーコは私の頭痛の原因でした。彼は得点を決める上に、ゴールの真正面に味方へパスを出していました。ジーコは、プラティニ、ジダンやロナウドと同じ位置にいます。私は、彼を非常に尊敬しています。1986年のワールドカップで一緒でした。負傷を克服してプレーできるための彼の努力を伴いました。私は非常に人物とプレーヤーを結合します。常に私の人生では、2つの顔を持たないようにしてきました。フィールドの中でやる事は、外側でもやります。そして、ジーコは姿勢を持つ人物の例です。子供たちには、そういう、ジーコ、ジナミッテやファルコンみたいな人物の見本が必要です。

Q:現在の「マウロ・ガルヴォン」、ブラジルで最高のDFは誰ですか?

チアーゴ・シルバとフアン。両選手とも、ブラジル人DFの特性をよく表します。 

in [インタビュー] |

ヴァーギネル・タルデーリのインタービュ-

[2009.01.13]

12月初めに、ヴァーギネル・タルデーリ主審はブラジル選手権セリエAのタイトルを決定する試合(ゴイアス対サンパウロ)ではじめて笛を吹くために首都ブラジリアで準備をしていました。しかし、試合直前にサンパウロの秘書より同主審宛に、モルンビーで行われる歌手マドンナのショーのチケットと金が入った封筒を送付したと言う話が出てきました。常軌を逸した試合結果操作の企みに関係なくても、タルデーリは、本人の合意もあって、試合が平静に行われるために割り当てから遠ざけられました。この出来事は現在、スポーツ上級司法裁判所によって検討されています。    サイトとのインタビューでは論争に加えて、タルデーリはJogo das Estrelas(スターゲーム)出場やそのキャリアの延長とピッチを離れる際には解説者になりたいと言う希望を話しました。   あなたは、Jogo das Estrelasの初回から同イベントの主審になっています。その招待は?   イアタ・アンデルソン(ジャーナリスト)によって招待された。隣人を助けることはとても大きな動機となる。私はすでに毎年そのイベントの参加を私のスケジュールに登録しておく。今でもゲームの終わりに私はジーコに聞く:「来年にも私は選出されてる?」。彼はいつも言う:「選出されてるよ」。そしてその時点でジーコは私のレフェリーディレクターになる(笑)   主審キャリアを延長するとい言う話は?   FIFAは主審活動制限が45歳までと確定する。44歳である私の場合、46歳でキャリアを終わらせるようにされている。私の規則正しいさと尊敬によるプレミアムのようなもの。私はすぐに受け入れた。シーズンのスタートにそれが公認されるかどうか見よう。  引退後はどうなりますか?   解説者になりたい。そのために準備を進めている。私はスポーツジャーナリズムによる2つの公開講座に出席した。また、バンデイランテス・ラジオ局で1年間の研修をした。   試合でホイッスルを吹くよりもコメントする方が簡単ではないでしょうか?   1つを他と比較することができない。異なる事である。試合の判定を行うことは非常に大きいなチャレンジだ。そして、そのチャレンジによってプロが克服される。ゲームの困難、サポーター、不利な結果、時にはけんか。22人のプレーヤーをコントロールしなければならない。時々、プレーヤーまたはベンチにいる監督を支配することの難しさがある。また、ミスによって解説されることもある。正しい情報を通過したり、分析しているものに対してちゃんとコメントする義務がある。 あなたの経歴の頂点瞬間は、どれでしたか? 私は、ブラジルだけでなく、素晴らしい試合に参加した。南米カップでは、エクアドルにて2決勝戦で笛を吹いた。U-20とU-17に参加した。ブラジルでは、セリエBとセリエCの決勝戦。私には、結局空想的な話のためにゴイアスとサンパウロの間で今年のチャンピオンシップを決定することになった試合を吹く機会をなくされた。 そのケースについて、あなたはどのように説明しますか? 裁判所さえ、そのジグソーパズルを完成させることがまだできてない。その話を持ち出したそれらの人々には話したことを証明する機会があったとき、彼らはそれをしなかった。そして、裁判所はその根も葉もない話のために罰する。誰かがどこかで聞いた話からではなく、私にとっては、その交渉の可能性に関する真犯人が明らかになって逮捕されたら良いと思う。私は、最初も途中もない話に巻き込まれ、そして終わりもないだろう。たとえ処罰されても、完全に解明されないから。 あなたのキャリアの中で不思議な出来事について話してください。 エスピーリト・サント州のある主審が彼の別れの試合において口笛を吹きに行った。白髪であった彼が、格好良く見えるようにヘアカラーリング剤で髪の毛を染めていた。しかし、その日は雨が降っていた。試合後半には、選手たちは主審の顔に流れていた赤い物質が気になったので彼に注意した。主審は副審に「大丈夫か」と聞かれ、そしてあれは妻に塗ってもらったヘアカラーリングによるものでまだ乾いていなかったと説明した。これは面白い出来事だった。面白くないのは、私が21年間期待して待ち続けた試合から取り除かれた事。 あなたは、それらのケースについて本を書くことを考えてますか? 私は、「どうやって私が決勝戦から取り除かれた」というタイトルの本を書きたいと思ってる。でも実際には、私はパズルを組み立てるピースを持ってないので本には出来ない。それは大きいな劇場、喜劇になった。人々は責任を持たない。彼らはプロの男、一家の父親と遊びまわってる。 あなたはルールにおいて何かを変更したい事がありますか? 私なら、サンパウロで行われた実験のように、2人の主審を置く。自分のサイドだけで判定するではなく、フットサルやバスケットボール同様に、すべてをマークするために。現在、1人の主審がピッチ全体を走れるので、二人が走れば良いと思う。私の角度からは見えないかも知れないが、他の主審は見えるのでマークできる。もちろん、選手が間違って主審の前を通り、それによって判断できない事もあるので、これらの犯罪者を処罰するのに大変役立つだろう。 ……

鹿島アントラーズ・オズワルド オリヴェイラ監督インタビュー

[2008.05.15]

履歴にちょっと目を通してみるとなんと2000年FIFAクラブW杯優勝、1999年ブラジル全国選手権優勝(両タイトルともCorinthians)またVASCOを率いてMercosul制覇等々これだけでもそうそうたるものだが本人は「まだまだ足りない」とばかりに今度は地球の真反対の『日出る国』日本にまで足を延ばす。ましてや彼が率いることになるチームは国内リーグで15位。しかしながらそのチームが最終的にタイトルを獲得してしまう。これらの偉業を成し遂げたその人こそが Oswaldo de Oliveira Filho。リオデジャネイロ出身の58歳。昨年からジーコが心血を注いだチームとして名高い日本の鹿島アントラーズの指揮官としてチームを率いている。約20年以上の長期にわたりフィジカルコーチ又ヘッドコーチとして活躍した後監督に転身。監督としてはアントラーズが11チーム目である。勿論今シーズンの目標はリーグ連覇だがもう一つ大きな仕事が待ち構えている。初のアジア制覇だ。因みに同チームにはダニーロとマルキーニョスが“同胞”とてして彼をサポートする。ではここで監督に一問一答 ジーコサイト:監督業を始めた経緯は?オズワルド:まぁ、一言で表現すると、そうですね“自然分娩”というところですかね(笑)23年間フィジカルコーチ又ヘッドコーチとしての経験を積んでいたのをコリンチアンズのフロントが評価してくれてチャンスをくれた訳です。ジーコサイト:日本進出に関しては?全く違う環境でしたが?オズワルド:日本に関して私自身、直接的な繋がりはないのですが何故か凄く興味がありいつかは仕事をしてみたいと思っていました。今回それが実現した訳ですがお蔭様で大変、充実してますよ。食事も合うし、なにより人が素晴らしいです。サッカーの面でも全体的にクラブ、リーグが大変しっかりと組織されていますね。ジーコサイト:アジア制覇という目標についてですがACLは南米で言えばリベルタドーレス杯に相当するのですがすがその印象は?オズワルド:正直日本の多くのクラブはあまりこのタイトルには興味がなかった様ですね。私自身はカタールのアル・アラブというチームで参戦した経験を持っていますがかなり難しい大会です。国同士、お互いプライドをかけた闘志剥き出しの戦いであるばかりか試合毎の移動の困難さとかまたジャッジの問題等リベルタドーレスと同じ様に厳しいですね。それとレギュレーションにより最初のステージは一チームしか上がれないのでさらに難しくなっているんです。ジーコサイト:日本で一番やりにくかった点は?オズワルド:やはりまず言葉の問題は大きいですね。しかし幸いにも大変有能な通訳がサポートしてくれています。ジーコサイト:どうしても優勝したよく年はマークされるものですが今年の鹿島はまさにそうではないですか?オズワルド:確かに。感じるのは昨年よりかなり研究されているということです。それとリーグと並行してACLを戦うという状況の中で特に日程の異常な厳しさとかを感じますね。大会舞台裏での決め事に何か偶然以上のものが存在する様な気もします。ジーコサイト:距離的な問題またその情報の少なさからブラジル国内であなたの監督としての存在感が薄れる又はなくなるという不安はないですか?オズワルド:正直言ってそれはあります。いつかはブラジルに戻る訳ですからね。でも今現在はここでの仕事、生活にとても満足してますよ。 ジーコサイト:あなたの夢は?又は将来のプランは?オズワルド:今こうして監督となったのも自然の流れでしたしこの先何かこうしようとか特別に計画をたててやろうとは思っていません。全て“自然分娩”で行きますよ(笑)ジーコサイト:あなたに影響を与えた監督、コーチとかは?オズワルド:一番には Parreiraでしょうね。70年のワールドカップでは彼から多くのことを学びました。その後もたくさんの監督、コーチから影響を受けましたがあえて名前を上げることは控えます。ジーコサイト:鹿島というチームの力を客観的にどう評価しますか?オズワルド:かなり良いチームであることは確実ですね。最初まだお互いに手探りだった時期は結構大変でしたがなんとか乗り切れました。彼等はとても集中力があり指示を端的に理解し実行してくれます。今の地位にいられるのもその賜物ですよ。ジーコサイト:最後に何かメッセージはありますか?オズワルド:今回ジーコのサイトのインタビュー依頼を受けた時は本当に光栄に思いました。何故かと言うと昔から私はジーコの大ファンでよくマラカナンに応援に行ったものです。まさに天才でしたからね。パス、フリーキック、ドリブル等どれをとってもとてつもない高い技術と輝きがありました。そんな彼も今や監督です。心から成功を祈っています。因みに鹿島でのチャンスを与えてくれたのも彼です。本当に感謝しています。皆さんこれからもよろしく。 ……

「オスカール・シュミット」  

[2006.11.29]

もし我々が今までにブラジルのスポーツ界で起きた出来事のリストアップをするなら絶対に置き去りには出来ない事がある。それは1987年の米国インデイアナポリスで開催されたパン・アメリカン・オリンピックでバスケットブラジル代表がホスト国を相手に勝利を得た出来事だ。あのチームで活躍し責任のとても大きく更にブラジルバスケットの偉大なアイドルともなった人物であるオスカール・シュミット。現在は引退しあの見事なプレーを見る事は出来ない。多くのチームのユニホームを着たが、フラメンゴでもプレーしチャンピオンにもなった。現在はサンパウロに住んプロ選手時代に出来なかった事をして過している。“神の手”と言われる彼が今やっている事の一つにサッカーがある。そんな話をこのインタビューで明かしてくれた。           サイト:もう引退にしてから結構時間が経っていますが、それでもプレーしている夢を見たり、起きたら練習しなくてはとか思ったりしますか?それとももう過ぎた事と割り切っていますか?   オスカール:「その時期は終ったね。もう3年もコートから離れている。懐かしさは無いとは言えないしもちろんある。何せ32年もバスケットやって来たしずっとそのスポーツに没頭して来たから。色んな良い思い出もある。友情も随分培ったし楽しい事も多かったよ」  サイト:それで今はサッカーに熱中しているって本当ですか?貴方の背丈が有ればセンターフォワードかゴールキーパーでも・・・     オスカール:「そうなんだ、45歳にもなってバスケットをやめてサッカーだよ!!キーパー!?僕は狂人じゃないからね、まあ前の方だったらあまり邪魔にならないし得点もヘタすると出来るかもしれない。僕は攻撃が好きだからね。それに自分の身体の使い方は心得ているつもりだよ。それよりヘッドのゴールを沢山決めるよ」        サイト:ジーコと一緒にプレーするなんて考えた事ありますか?      オスカール:「本当の事を言って考えた事無いな。僕と一緒だったら彼が大変だよ、僕は凄くボールを欲しがるタイプだから。でもやってみたら面白いな。彼らがボールを組み立てて僕が点を取る。恐らく凄いツートップになると思うよ。僕は今遊び半分でサンパウロでチームを作った。チーム名は“オスカールとアミーゴ達”と言うんだけど、もしジーコがやりにきてくれたら勿論10番は彼の為に取っておくよ。」  サイト:ジーコと言えば、貴方はひと時フラメンゴで貴重な時間を過した。フラメンゴと言えばブラジル国内で一番サポーターの多いチームでなおジーコと言う偉大なアイドルがいるけど、そのチームでプレーするのはどのように感じましたか?  オスカール:「フラメンゴでプレーするのは素晴らしい事だった。もしフラメンゴのユニホームを着なかったら、サポーターの情熱は伝わって来なかった。彼らが唄う中に自分の名前も入る事も、ゴールにも、ネットにも、観客席にも聞こえる感動が伝わらない。もちろんヘマすればブーイングだってお構いなしに飛んでくる。フラメンゴでは4年間プレーした。経歴の中でも素晴らしい出来事として刻まれている。フラメンゴでチャンピオンになり街中をオープンカーでパレードもした。あれは特に感動だったね。何処へ行っても必ず赤黒ファンが居る。熱狂的な赤黒ファンも居る。チームに惚れ込んでいるね。一度ブラジル杯決勝戦の始球式に僕をマラカナンに呼んでくれてスタジアムに僕の名前が響いたんだ。赤黒ファンが叫んでくれたけどあれは凄かった、鳥肌が立って凄く感動したよ」   サイト:ブラジルのチャンピオンにもなった貴方が現在の堕落したブラジル・バスケットを見てどう思いますか?  オスカール:「今見て悲しくなるね。ブラジルの第二のスポーツにもなった位なのに。現在は非常に悪い時期になっている。各チームも活動を止める状況を最近見ていて本当に悲しくもなるよ。スポンサーも他のスポーツに鞍替えしたりしているしね。選手達は失業してしまうし、今はやるべき人も何もしていないという状況だ」       サイト:NLB(我々のバスケットリーグ)について話してくれますか?改革への挑戦について、貴方は今のリーグについて満足出来ますか?                 オスカール「満足出来るね。“我々のバスケットボールリーグ”は一つの誇りだ。初年度から僕等は男子も女子も大会を組織する事が出来た。それは最初に考えていた目標よりはるか上で、大会も競合率が高くて内容の良い試合が多かった。大会も上手く運営できて国内南から北までのチームが集まることが出来た。勿論まだまだ改善するべき点は多いけど、2年目にはバスケットでNLBが勝利を得る年にしたい。」         サイト:貴方はNBAでもプレーする機会がありましたがあの頃セレソンに参加する意義を認識していた。現在では状況も違うがブラジルのレアンドリーニョやアンデルソンにネネもあちらで頑張っている。こうした良い選手が海外でプレーしているのに国内でのバスケットが良くないのをどう考えますか?     オスカール:「僕等には人材には不足しない。優良な選手もいます。彼らはNBAでもヨーロッパでも注目される選手です。だけど、組織に欠ける。最後の国内選手権にはチャンピオンもいなかったし、メディアも参加しない、スタジアムに試合を見に行く観客もいない、チームも無くなって行く、下部組織の活動も放置状態、などなど兎に角間違った部分が多すぎる。スポーツに対して何をしたら良いのかを言うのでは無く、やる気になる事がまず大切だと思う」  サイト:もし貴方が魔法のランプに対して特にバスケットについて一つお願い事が出来るとすれば何をお願いしますか?  オスカール:「僕は一時的にバスケットの時間を止めて貰う。それでバレーボールがしたような企画、組織編成、環境と専門家(プロ)の参加などを取り入れて見たい」       サイト:貴方は現在国内バスケットを見ていて貴方のようなアイドル的選手が生まれて来るのを見出せますか?ここ暫くバスケットのアイドルが欠けているようですが。  オスカール:「僕はブラジルバスケットで自分のやるべき役割は果たしたつもりです。僕の時代ではマルセールとか他のメンバーがしたのと同じようにね。それ以外に例えばローザ・ブランカ、ウビラタンや沢山の選手達もそうだった。現在ではネネ、レアンドリーニョにアンデルソンらが居てNBAに属しているけど、若手には彼らがアイドル的な存在になっている。彼らはそう言う部分を上手く利用して僕等のスポーツの為になって欲しいし、若手にも良いモデルにもなって貰いたいのだけどね」      サイト:貴方がバスケットでの大きな鏡となっているのは疑問もないこと。どんな形でもスポーツの困難を打開するために協力が出来ると思いますか?   オスカール:「何とかバスケットの為になる方法を模索している。僕とパウラもそうだし、オルテンシアも一緒になってね。それをとりあえずNBLで生かそうと考えている。いつも我々はこのスポーツに協力できるような態勢ではいます。バスケットはいつも僕を必要としているし僕はそれに背を向けることは出来ない。」      サイト:最後のジーコにメッセージを贈って下さい。彼も向こうで読んでいますから。  オスカール:「ジーコ、世界の幸運は君に対してのものです。君はピッチの中でも外でもモデルとなる人物です。ブラジル全国民が誇りに思っている人物であり、僕もフェネルが総てのチャンピオンになる事を願っている。オスカールの抱擁を受け止めて下さい。その内に出来ればペラーダもしましょう」                              ……

モラシー・サンターナ  

[2006.08.16]

近代的なテクノロジーを駆使してサッカーのために高レベルで質の高いなフィジカルトレーニングを施しているプロフェッショナルがいるとしたら、それはモラシー・サンターナである。1951年7月6日、サンパウロ州サンターナ・デ・パライーバに生まれた。1974年にはサント・アンドレー体育大学を卒業。モラシーはブラジル国内でも海外でも多くの勝利を得て来ているがその常に新しい事を学び実行する功績は世界でも認めているところである。                   ざっとこの30年間の経歴には、1991年にブラジル選手権優勝、92,93年世界クラブ選手権優勝を果たしたサンパウロFCの羨ましい限りの肺活量、体力の責任者でもあり、2002年のコリンチアンスでのブラジルカップ優勝、94,95年度のフェネルバフチェでのトルコ選手権優勝でも同じ事が言える。さらにブラジル・セレソンでは、1994年W杯米国大会でフィジカルコーチ、2005年にはコンフェデーレーションズカップにも帯同した。更に1988年のアジアカップではサウジアラビアを優勝に導いている。もっと色々あるのだが、後は彼との会話で話してもらおう。イスタンブールに置いてはジーコ自身が直接インタビューした。         ジーコ- モラシー、フィジカル・トレーナーになった経緯から話して貰えますか?  モラシー 「私が始めたのはサンパウロの名門パウメイラスからです。あの時はまだ体育の学生でしたが、1973年でしたね、エットーレ・マルケッチ監督で、丁度下部組織の8-10歳ぐらいのカテゴリーでアシスタントコーチを必要としていました。そこに3ヶ月在籍し、その後ジュベニールとジュニオールカテゴリーにも3ヶ月居ました。そのまま続けてプロチームのアシスタントになったのが1974年でその年には大学を卒業しました。」        ジーコ -あの頃のフィジカル・トレーニングはどんな風でしたか?     モラシー 「あの頃は殆どが経験主義でした。経験からの指導法が多かったのです。テストするにもそれだけの知識も少なかったし、先進国並の発展したテクノロジーまではまだアクセスも無かった時代です。選手達はみんな同じ様に練習して、同じ時間、同じ強度でやっていました。現在では科学的に、理学的に検査される条件が備わっていますからもっと精密な仕事も出来るし、科学的で個人的、つまり個別に診て完璧に近い処方が出来ます。この方法によって選手の持っている能力を最大限に引き出す事にも繋がっています。」     - 君の経験は海外でも豊富なところが気になるけど、ブラジルとの差と言うのは有りますか?       モラシー 「私はサウジアラビアでも、UAEでもスペインでもトルコでも仕事をしてきました。それぞれの国でその違いは確かに困難でも有りました。サウジとUAEでは主な問題としては彼等はプロ意識が無くて、と言うよりプロじゃないのですね、それで練習もきちんとやらない。やる義務が無いから。だから個々のコンデイションをコントロールして維持するのが大変難しかった。スペインに行くと、今度はあちらは二部練習をする習慣がないのです。そこで定期的にデータを取るやり方を考えるしかなかった。そう言う練習も少なかったのです。トルコではもっと簡単でした。とにかく選手等は練習をするのが好きだったので問題は無かったのです。私のやり方を植え付けるだけだった。」          - そうみたいですね。アラビアの国では君が苦労したのは解ります。  モラシー 「そうなんです、ジーコ。プロでなくて練習する義務も無い彼等の言い訳はいつも母親をメッカに連れて行かねばならないとかでした。それでフィジカルトレーニングには来ないのです。時折私はテレー(サンターナ)と場所を代わって私の練習をやったりしましたよ。もう一つの問題は食事でした。彼等はよく何も食べないで練習に来たりしていて、結局体力がもたないから途中で止めざるを得なくなる。」             - 凄い差とプロ意識の欠陥、私も日本に言った時に出くわしましたが-、少なくとも話題の種になった・・・  モラシー 「そう、アラビアはついたとたんだった。王子が宮殿に招いて夕食の座に入った時だった;床の絨毯にみんな座るのです。私たちはどんな風に食事をするのか興味深々だった。驚いたことに彼等は手掴みで食べ物を皿に取って私たちに配るのです。あれには正直言って中々食べられなかったね。自分で取った食べ物だけちょっと食べて誤魔化しました。面白いのは出会った時には全員が全員と挨拶するのだが、食事が済んで帰る時には誰も挨拶もせずに勝ってに帰って行くんですよ。今は変わったかもしれませんが、あの夕食会では私も満腹にならなかったね」(笑い)        - 解りますね。異文化の中に入ると人生でも全く違った体験を我々はするものです。  モラシー 「それに、宗教の話をすると、アラブで絶対的に優勢なのはイスラム教ですね。習慣として一日に5度祈りを捧げます。その間商店などは全部閉めています。選手達も練習を中止して祈ります。洋服も西洋とは全然違いますし、女性はブッカと言う布で顔を覆っていますね。こうした事は私達の強い注意を引きますが時にはショックさえ感じます。結婚式になるとパーテイーは別々に行なわれるし、主なパーテイーは男性ばかりでもう一つは女性専用なのです。とにかく違いが多すぎる。」           - モラシー、私たちは文化の違いばかり話しているけど、セレソンではどうでしたか?いつも経験は重要だと思いますが・・・    モラシー 「二つのワールドカップで随分勉強しました。82年と86年でアシスタントコーチでしたが、二回とも負けましたね。私が実際に指導したのは94年でしたが、大変貴重な経験となりました。あの時は総て順調に事が運んでやることが総て上手く行きました。結果としてタイトルをブラジルにもたらしたのですが。90年のイタリア大会にはUAEの主コーチで参加しましたし、98年フランス大会にはサウジアラビアで参加しています。セレソンに帯同するのはどんなプロフェッショナルの経歴でも最たることだと思いますね」          - もっとたくさん話をしたいのですが、話題を変えて現在のフェネルバフチェと1994年に一度パレイラと一緒に来た頃の事を少し話してください。   モライシー 「違いは大きいですね。クラブの施設や組織が大変良く成っています。トレーニングセンターも素晴らしく良くなっています。スタジアムも近代的になっているし、チームは1995年に来た時と違って強くなっています。基本的に設備も経済面も良くなっているので、必然的にチームも良い編成が出来ていると思います」            - さて、最後には君のためにスペースを作ってあります。  モラシー 「ジーコとこうして再び一緒に仕事が出来る幸福感を感じてその気持ちを此処に表したい。選手として活躍している頃私もいつも尊敬し、いろいろ勉強もさせてもらいました。今はその“神様”が横に居て一緒にこのチームを指導する栄誉を感じます。私の喜びは大変大きなものです。ジーコが大事にしているこのサイトにも出られ幸せです。読者の皆さんには幸運と私のアブラッソを送ります。“神様”は皆さんに祝福を与えます」                                        ……

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[2006.07.28]

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