ブラジル代表での倫理とフェアプレー
[2015.07.02]
最近私はブラジル代表が営業場所になるようであれば不快に思うとコメントしたことで論争の中心になっている。
最近私はブラジル代表が営業場所になるようであれば不快に思うとコメントしたことで論争の中心になっている。
先週には、チャンピオンズリーグの準決勝の第1戦が行われた。非常に異なった2つの試合では、ホームで戦ったチーム、JuventusとBarcelonaがリードしている。この2チームの共通点は、二人のアルゼンチン選手の決定的な役割である。Juventusで素晴らしい時期を過ごしているTevez、そしてスター選手のMessi。 私は、単純な理由のために異なっている対決だと言う。イタリアで行われた試合では、Juventusの勝利にもかかわらず、Real Madridの方が理論的に有利である。トリノ市のチームは強いディフェンス、Tevezと優秀な選手を持っているが、スペインの試合で出場するPogbaが欠席した。このフランス人選手は決定的なプレーヤーだ。しかし相手側にはCristiano Ronaldoと非常に立派なチームで技術的にも優れた選手がいる。 私は、Real Madridの攻撃的面を理解できなかった、特にBaleとJamesのプレー。チームの動きはうまくいかなかった。Cristiano Ronaldoはエリア付近で凄く良いプレーヤーであることを私は理解しているが、MessiやRobbenのように、複数で中盤から攻撃まで引っ張っていくような選手ではない。 次の水曜日の試合で、Carlo Ancelotti監督は、Karim Benzemaが戻れば、その戦術的問題を調整できると思う。 Juventusは理論的には他の3チームよりレベルが低いと思われても、中盤のPirloの経験と特徴と非常に守備面では効率なチームである。 私は、Realが2-1で破った後、さらに1得点するために、ホームであっても難しいのだろうと思う。 本当に大きな一歩を踏み出したのはBarcelonaだ。そして、私の意見では、両チームの細かな違いを生み出した理由には、プレイしなかった選手がいた事だ。強豪チームの対決では、RiberyとRobbenの欠席は非常に重かった。更にはBayernはMessiやNeymarのいるチームに直面した。 3-0の結果は、ドイツでの試合では大きな差だが、不可能ではない。大きな挑戦はBarcelonaのような相手に3点を取ること。ドイツ人はそのような強いチームを相手にスコアを逆転させることができるのか、我々は明日知ることになる。 チャンピオンズリーグの予想では、Real Madridがベルリンでの決勝戦に進出するように近づいていると思われているが、最終的には、BarcelonaとJuventus間の決勝になるだろう。結果を待ってみよう。 一方、UEFAヨーロッパリーグでは、ディフェンディングチャンピオンSevillaは、スペインでFiorentinaを3-0で下した事によって、二度目の優勝を獲得するための大きな一歩を踏み出した。多くの場合イタリアのチームがより良いホームゲームを行うことは事実であるが、非常に困難なスコアだと思う。もう一つの対戦ではNapoliがDinproと1-1で引き分けた。ウクライナのチームは得点を決め、そして今度はホームでプレーするが、Napoliはこのゲームを逆転できる可能性がある。スペイン対イタリアの決勝戦になるかもしれない。 ボールは明日から転がり始まる。我々は観戦してまた感想を述べたいと思う。 ……
Quintino区のBernardo Guimarães 通りからPontal 通りまで、Juventude団体でのカーニバルは子供の頃から常に特別なパーティーだった。当時の自分を含めアントゥネス一家は友人に囲まれて一緒に遊んでいたころの思い出は最高だ。 70年代以降、サンバ学校の存在は私の人生の中でより強くなった。そしてBeija-Florへの愛情が生まれた。カーニバルの時期に仕事に余裕があった時は、常にBeija-Florに行ってた。今年はImperatriz Leopoldinenseによって自分の歴史がサンバ大通りで表現された。自分は本当に恵まれた者だ。今回は自分がこれらの日々に経験した感動や喜びについて語り、この瞬間に参加した多くの人々にお礼を伝えたいと思う。結局のところ、サポーターがハッピーバースデーを歌いながら、私はサンバ会場の大通りで61歳を迎えた。素晴らしい経験だった! 十数年にわたり、たびたび、いくつかのサンバグループの学校が自分に対して大通りでの敬意を表す提案をしてきた。ある時には、私にはまだ歴史が足りなかったと確信していた。またある時は、そのプロジェクトをチェックする時間がないだろうと感じていた。常にこれらのことは適切なタイミングで我々の人生の中で起こると信じていた。 今回のImperatrizの場合はまさにそうだった。最初の接触は息子チアゴを通してきた。その後、もしLuizinho Drumond会長が私の人生はサンバのテーマにふさわしくならないだろうと思ったならばその決定は尊重しようとした。私はサンバ大通りで参加経験重ねており、しばしば「サッカーをテーマにする事は困難であり、カーニバル審査員を喜ばせるには難しい」との伝説を常に聞いていた。 しかし、今回は違った。それら全ての障壁を破り、私の話は学校とメンバー全員の支援を受けてサンバ広場に登場した。学校のメンバーによって受け入れられたテーマの選択は、YouTubeの動画や家族による報告によって私が知ったことなので、日頃海外での仕事が多い中で、最終段階でCahe Rodriguesの作業を近くで見れるように私がここブラジルにいることは運命のお陰だ。 Imperatrizのパレードは非常に綺麗だったし、うまく伝えればサッカー話は尊敬を受けることを示すことができた。テーマはすべての審査員から10点を与えられた。美しい山車、豪華な衣装で、サンバがスタンドを盛り上げた。いくつかの小さなミスがevolução(進歩)、conjunto(総体)とharmonia(融合)の必要条件に影響を及ぼしたので残念だった。もちろん勝ちたかったが、私は非常に嬉しくて5位で満足している。 > なによりも私にとって重要なことは、Imperatrizのメンバーからの支援を受けて、大通りで美しいサンバと良い仕事を見せたこと。それら全てのことは実現した。偶然ではなく、Caheは2014年の最高のcarnavalesco(カーニバル・プロデューサー)として、一部の専門家によって指摘された。 それら全てのことで、私は誇りと感謝の気持ちでいっぱいになった。Luizinho Drumond会長、カーニバルディレクターのWagner Araujo、カーニバルプロデューサーのCahe Rodrigues、つまり、私に今回のパーティーを与えてくれた、Imperatriz Leopoldinenseのメンバー全員に感謝!!一生忘れられないパレードを実現させたすべての人に感謝しています。 私のそばにいた友人や家族、本当にありがとう。そして、私はパレードの前夜にFacebookで言ったことを繰り返す。ただ、私の子供の頃に我々がQuintino区で楽しんだように、このパーティーを一緒に楽しむために父Antunes、母Matildeと兄Antunesに生きていて欲しかった。 今年のカーニバルは間違いなく私のカーニバルの最高のカーニバルとなった! では、また! ……
ジーコサッカーセンターが19周年! 19年前、私はプローとしてプレーしていた頃から持っていた夢を実現し始めた。それは、Centro de Futebol Zico(ジーコサッカーセンター)であった。すべては、Nova Geração(新世代)の活動で始まったが、ボールは幼い子に対しておもちゃだから、私はいつも遊び心の側面を失うことなく、そこに競争力の側面を維持しながら子供たちにサッカーを教えることができると信じていた。それは、私がセンターに適用した方法論で、現在はZico 10によってブラジル中に広がっている。 ジーコサッカーセンターでは、私がクリニックを指揮して写真のように練習や講義などで子供たちと話をした。ほぼ二十年間には大会も行ってきた。U-15の伝統的な大会にもなった、ブラジルと日本を結ぶ 、日伯友好カップはもう第16版を迎えた。後にJリーグでプレーする日本人やブラジル人の才能がその大会に参加した。 我々の中ではよく知られてい話だけれども、元ブラジル代表選手Mazinhoの息子で現在Bayer所属のThiagoが我々のセンターに通っていた。その他にもブラジル人だけでなく、日本人、パラグアイ人、アメリカ人やベネズエラ人なども通った。 我々は、ジーコサッカーセンターにおいて主要な大会を開催しており、現在もCopaZICOを始め多くのイベントを主催している。そしてAntunesスタジアムからはスターズゲームが誕生した。現在はマラカナンで行うまでとなった試合でもあり、私が非常に誇りに思うチャリティーイベントだ。 忘れてはいけないのは、ブラジルの偉大なサッカークラブも、ここでプレシーズンのトレーニングを行ってきたし、現在でも行っていること。また、ブラジル人選手が、怪我や手術後の回復に我々の施設でリハビリを行ってきた。ドラマや映画に出演している俳優のトレーニングも行ったこもあった! 6月には、昨年のコンフェデレーションズカップ時と同様に、このサッカーセンターはW杯での審判のトレーニング施設となる。もちろん私は、W杯で活動する審判の準備をする施設としてFIFAによって選ばれたことを誇りに思っている。 多くの人々に色々なもの与えられることは大きな喜びだ。ジーコサッカーセンターの歴史を作ってきたすべての人々、現在我々と協力している従業員やコーチ、スタッフの皆さんおめでとうございます!このジーコサッカーセンターが長生きできるように祈っています! では、また! ……
私はブラジルや世界中で広がっているフラメンゴの何百万人のサポーターの一人だから、フラメンゴの監督が誰であっても常に応援しているがある。私がドーハで伝え聞いている事は、常にフラメンゴサポーターだと言っておきながら、政治的には反対側にいる多くの人たちが、臆面もなくフラメンゴの最悪の事態を期待していること。私には理解できない。おそらく、これらの人たちはクラブでの変更で自身が何かを失ったのかもしれない。今は本当のサポーターは応援する必要があるのだ。 ジャイメが監督として年末まで働き続けることと、カンタレリがアシスタントコーチとして赴任したことを聞いた時、私が非常に嬉しく思った。今回はこの二人をテーマにしたいと思う。 ジャイメは私と同じ世代だ。私は、我々がまだフラメンゴの下部組織にいた頃の写真をFacebookに投稿した。同名の彼の父も40年代にはフラメンゴの偉大な選手だったため、ジャイメのそのクラブとの関係は血に流れている。しかし、多くの人が知らないことは、彼が1997年にCFZリオで私と一緒にコーチとしてデビューし、3部のタイトルを獲得したということ。もう一つのトピックスは、2部昇格を決めた試合の得点を決めた選手は、私が後で日本代表で率いた鈴木隆行だったということ。日本と言えば私はジャイメを連れて行った。彼は鹿島で当時監督をしていた私の兄エドウのアシスタントとして働いた。 私はクラブの決定を祝う。そして彼がCarpegiani、Carlinhosや Andradeのような、クラブで歴史を作った他のコーチの後をつぐように応援する。私はここで、ジャイメに幸運を祈っていることを改めて言う。 一方、私が更に一緒に働いた仲間のうちの一人であり、私がサッカー界で作った真の友人であるカンタレリについて、二つの短い話をすることができる。カンタレリは、私と一緒に2002年から2006年の間に日本代表GKコーチだった。我々が到着したとき、私はチームを発展するために強豪国との試合を求めた。私は、アフリカ、南米、ヨーロッパの最高のチームに直面したかったが、彼は、だれでも聞きたくはないけど、聞かせるべきであることをこっそり言う友人のタイプだから、私に注意した。「ジーコ、それは良い考えだと私は思わない。その中に弱いチームを入れないといけない。そうでなければ我々は、負けて、負けて、負けて多くのことを学ぶが、我々は解雇されてしまう、そして後で成果を得るのはその後のコーチ陣だ」。なるほど。 カンタレリが状況に対応し落ち着いている様子は常に私の目を引いた。これは、現在のジャイメとフラメンゴのチームを支える上で重要になる特徴だ。私が常に思い出すのは、元ゴールキーパーの彼は、会話の中でサッカーで危険な活動をする"盗賊ボール"について話をする。それは通常、君のチームがコントロールし、プレッシャーかけて、味方ゴールキーパーが89分間居眠りしそうな試合に限って現れる。そこで、相手ディフェンダーがロングシュートをし、油断しているチームに対して盗賊ボールはそのネットを揺らし試合を決める。今年のフラメンゴはそれに苦しんでいた。 カンタレリは、勝つ必要があるけど負けてはいけない試合があると私に警告した。私は同じ意見である。勝利を追跡する必要がある試合はあるが、引分の1点も悪くはない。現在のフラメンゴの場合、サッカーの言語では、そういう試合は6点に相当するものである。上位で戦うチームや良いサッカーを見せているチームとのアウェイマッチ、いくつかの地域ダービーマッチ。そして、マラカナンで相手チームが3点を残しておく必要がある試合もある。我々には6試合がある。一つはもう行った、Criciúmaとの対戦だった。 二人の挑戦は、もっと補強選手獲得できる2014年計画と取締役の学習ができるような、穏やかな年末にチームを運ぶことだ。私は監督として、指導者の責任は結果の20%、おそらく30%だと思う。残り分は選手たち。しかし、ハードワーク、落着きとこの割合が安定してないといけない。 ジャイメとカンタレリは、フラメンゴを指揮する能力を持っている。私は、勝つための決意、意志を欠いていないことに気づいている。この精神で、チームは規則性を維持することを条件に、ライバルの尊敬を再獲得することができる。私は信じているし、私はここで応援し続ける。まだ応援し始めていない人はスタジアムに行ってください。 では、また! ……
自分の現役時代には、若者たちに自分が学んだことを伝えたい思いが非常に強かった。Nova Geração(新世代)は、国内の社会的な問題点を背負ってできた訳ではないが、私がサッカーセンターを作り、リオのCFZというチームを設立した後すぐに、その社会的な問題について検討する必要があるとはっきりとわかってきた。ブラジルは貧富の差を持つ国であり、我々のチームでプレーしていた子供やその親たちの瞳を見て、サッカー選手としての成功は多くの人々が生活レベルを上昇するための絶好のチャンスだと感じていることに気づく のに時間かからなかった。私はスポーツはそれ以上のものであることを見せながら、その社会的な問題においても活動できることに気づいた。 私はすべての子供がスポーツで遊び心を経験するべきだと思っている。しかしながら、そのことを歪曲する、若者がプロサッカーの高賃金のみを目指す事を心配していた。競争力を求められる集団での毎日の練習や試合を通じて得られることは、市民としての成長していく事とは外れる部分がある。しかし、我々は、ブラジル中で広がって成長している誇りの元である、ESCOLA ZICO 10プロジェ クトに着くまで、ジーコサッカーセンターにおいてその手順や選手育成と市民育成の違いに対処する方法を練ってきた。 今は、Zico10が多くの家族のために貢献でき、非常に嬉しいことで自分の誇りとなっている。リオ州政府との共同とRio de Negóciosの主催で、Copa Zico 10 UPPs大会は、2000人の子供にサッカーの試合を提供している。 自分の地域社会にこのようなプロジェクトが存在することが、家族や少年たちの人生へ与える影響を想像してください。地域のサッカー大会でプレイすることは?それは、貧民街のストリートサッカーと地域のコミュニティとを近づけることが可能だと信じることだ。このような活動に自分の名前が貢献できることは本当 に私を感動させるものだ。 私はこのような話を聞き感動している。先ほど言ったように、少しでも私がサッカーで得たものを伝えること、いつも私に愛情を与えてくれた人々にお返しできることは、私が献身と愛をもって行うものだ。「Zico 10」からは、なによりも人生のエースたちが生まれると信じている。 では、また! ……
コンフェデレーションズカップでブラジル対日本の対戦が行われる。今回はただのサポーターとして 自分も観戦する。ブラジルに対してはあまり話をする必要はないが、日本との私の関係も特別であることはみんなが知っている。2005年6月22日に同じコンフェデレーションズカップでブラジル戦の引 分けの時には私は日本の監督だった。 日本でプロサッカーが始まった時代に多くの思い出がある。私が1991年に 日本へ行った時の我々のチーム、住友金属工業は従業員が会社の工場で働いた後にサッカーをしていたアマチュアチームだった。私にとっ て非常に奇妙なものだったが特別な挑戦だった。5月に鹿島を訪問した時に、私は1991年から1994年の間に歩んだ道の多くの分を思い出すことがで きた。 私 は下記の写真には説明する価値がある。これは私が鹿島スタジアムに着くために通っていた道である。当時新設されたスタジアムは住 金を土のピッチから抜け出して、現代スタジアムに変え、プロ意識、マーケティングの構造と後に達成するタイトル獲得に辿り着くための多く のプロジェクトの 一つだった。 私は毎日、田んぼの道を通っていた。日本人たちに対してそれらの田んぼの重要性を覚えてい る。5月は田植えの時期であり、利用可能な土地のすべてを利用し、9月から10月に収穫を待つ。実際に鹿島アントラーズのチームはこの作業によく似ている。私たちはプロサッカーの田植えを 行った。日本の地図上に町を加え、その後成長してきたし、チームは現在、国内で最も成功している。良い収穫だ! 私も開催に向けて色々とアドバイスした2002年 ワールドカップに向けて建設されたいくつかのスポットも記録することができた。私が何回も利用した列車が通過する神宮橋、スタジアム にある私の銅像、そし て私が住んでいた住宅。日本でここに私が住んでいた頃の素晴らしい思い出。ギャラリーの最後の写真は、私が試合結果を写真でサイ トに送信していた時を 思い出す。 私 はノスタルジックではないので、常に前向きに挑戦することを探している。しかし、本心から感じる懐かしさの感情は違うものだ。私は日本で たくさんの友達がで きた、思い出話もいっぱいある。そして日本のサッカーの発展のために私が最善を尽くしたきたという確信もある。最大の報酬は、今回私はこ の訪問で再度確認 することができた、サポーターの愛情。これは、自分にとってすべてを尽くしてきた努力に対する最も嬉しいご褒美である。 写真をお楽しみください。ではまた! ……
2002年よりサポーターとの交流をより深める為に公式ウェブサイトを持つことになった。私はサポーターと近づくための様々な取り組みを非常に楽しみにしていた。 私は色々な意見を聞きたかったが、よせられる量が多くてメールや手紙を読むのが難しかった。何年かはブログも試してみたが、コメント欄では、サッカーにつ いての議論が多く、チェックするのが非常に難しかった。そこで私は、世界のどこでも人々との直接のコミュニケーションが取れるようなものとして新しいツー ルのFacebookやTwitterを紹介された。現在私はほとんどチェックし、時々、特にFacebookで歴史的な写真や話を投稿したり、私がコメ ントしたい事を投稿し始めた。 そして今回はサッカーの試合を通じて実際にサポーターと接することのできるアイデアが生まれた。私はこの企画に直ぐに賛同した。実際にどのようなことにな るか想像できなかった。サイトのスタッフによって準備され17日にイベントが開催された。みなさんからの強烈な愛情表現に対して私は非常に嬉しく思ってい ることを伝えたい。ブラジル各地からジーコセンターまで来てくれた。私と一緒にサッカーするために時間とお金を使った人たちがいる。 多くの人は、特別な日だったとは思えないかもしれない。しかし、そうではない。誰でも個人的な経験やユニークな思い出を持つので、一人一人の表情、笑顔と 涙は特別だ。これらは何よりも私の尊敬に値するものだ。私は、現役時代いつかこのような日が来るなんて想像もせずに、熱心に一生懸命プロサッカー選手とし て生きてきた。しかし、今私はここにいるので、私がお返しできる事は、私がここまで辿り着つくように応援してくれた人々に対して、できるだけの愛情をもた らすこと。 私は、60歳で満足感を感じ、家族や友達と楽しんで、さらに何十年間か前へ進む準備ができている。しかし、私はサポーターとの接触のような瞬間は常に彼ら と私にとって重要であることを意識している。時が過ぎていくと、私の体にも時間が経つことを分かってほしい。膝が腫れて、自然に体力が低下し、私はサッ カーをプレーすることを考える時はもう少しゆっくり行く必要がある。しかし、私は喜んでやることを知ってください。 私は、キャンペーン当選者の22名の方の名前を言うよりも、試合後に彼らからもらったスペシャルなプレゼントについてコメントしたい。その前に、おいし いリブを提供してくれた親愛なる友人のRubens Fachinni Fachinniにありがとう。ところが、プレゼントについては、コメントや写真を通じてキャンペーンに参加した人たちの経路を示す美しい本をグループか ら受け取った。私と同様にフラメンゴの情熱的なファンで、それでも、こんなに私に愛情をくれる。 サッカーが私に与えた喜びは終わりはない。だから、私はいつもサポーターとの関係で受け取ったものをお返しするための楽しい使命を持っていることを覚悟し ている。サッカーをプレーしたり、観てたり、写真を撮ったり、応援したり、そこまでサッカーするために行けなかった人を象徴してサッカーセンターに来てく れた人々を通じてもう一度みんなからの愛情に感謝したい。 ではまた! ……
正直ここ数 日間に私が感じさせてもらった感動を活字で表すのは難しい。心を揺さぶられる様な一連のエモーショナルな出来事が続いたが何と言ってもそのピークは2日 だった。本当に多くの人々から愛情のこもった祝福を頂戴した。また久しぶりに旧友達との再会が実現し昔話に花が咲きさながら当時にタイムスリップした様な 錯覚に陥った。彼等からも友情たっぷりの祝福を頂いた。まさに祝福に次ぐ祝福でまともに謝意を表す余裕もなく失礼してしまったので今回この場に於いて改め て私の深謝の意を述べさせて頂くことにする。 先ずフラメンゴをこよなく愛するフラメンギスタ諸君、昨今のクラブの状態 に嘆き哀しむ気持ちからサポーター仲間のみならずアーティスト、アスリートをも巻き込みクラブの大変革を期し大ムーブメントを起こしてくれた。皆の努力が 今日この感動溢れる瞬間に繋がったのだと思うと胸が熱くなる。さらに感慨深いのは全てが常に私を支え続けてくれたサポーター諸君のイニシアチブで始まった という事だ。同時に海外の特にイタリア、日本、トルコのサポーター諸君にも深謝したい。遠く離れた地から私に力を与え続けてくれた。フラメンゴの旧チーム メイト諸氏、常にライバルとして切磋琢磨しあった他チームの良き友、サポーターの皆さんの真心も忘れられない。現フラメンゴは運営陣が一新されサポーター 側の意見も積極的に取り入れられる理想的な、まるでフラメンゴが世界に輝きを放っていた時代を彷彿とさせる体制に様変わりした。感動的な今回の大イベント を立案、実現してくださった多くの方々に心より御礼を述べたい。さらにメディア関係の方々とは、私は常によい関係を保て たと自負しているがこのイベントへの諸氏のご配慮、ご尽力には本当に頭が下がる思いである。私が60歳を迎えるにあたり自分が誠心誠意歩んで来た道程を家 族、親戚、友人等の協力と共に見事に活字で、動画で再現して下さった。インターネットを通じては多くのファンの方々と身近にふれあって来たが、その都度癒さ れ力を頂いた。 本当に皆さん有難う。最後に私のファミリーへ、パパ、ママ、ゼッカ兄さんは既に天に召されているが常に私を見守ってくれているのを感じてい た。家族の愛情、支えなしには何事もなし得なかった。そしてサンドラ、私の歴史には常に君が寄り添ってくれていた。有難う。兄さん達、姉さん、息子達、そ して孫達。皆の存在がどれ程私にパワーをくれたことか。この年で益々元気で頑張れるのも君達のお陰だ。 本当に心のそこから有難う! ではまた次回 ……
私は、サッカー界に入る時に、両親より与えられた良い環境と兄弟の支援を受けたことを誇りに思った。私が子供の頃に学んだ一つのことは約束を守ることだ。私は決して契約を見捨てたりしなかったし、口約束をしたことも必ず守ってきた。残念ながら、今回私はイラクサッカー連盟との契約を最後まで履行せずにイラクでの仕事を辞めなければならなかった。決して私が望んでいたことではない。 昨年イラクに着いた時、私はあそこには苦しんでいるけどサッカーに情熱を持つ人々がいることにすぐに気づいた。そして才能を持つ選手がいた。私は2007年にアジアチャンピオン世代に出会い、彼らはワールドカップに出場する可能性を夢見ていた。特に2014年ブラジルでのワールドカップ。経験豊富な選手で、彼らは両手を広げて私を歓迎してくれた。 しかし、日ごとに明らかになっていく運営組織の困難に気づくために長い時間はかからなかった。いつも難しい移動での遠征、ビザ手続きの不手際のために途中で残された選手たち。利用できる練習場やスタジアムの不足。長年の戦争により弱体化した国内リーグ。更にその状況がより悪化させる出来事が起こった。プレーできる状態であったたった一つのスタジアムがある場所、首都バグダッドは安全ではないということを理由にFIFAより国内での予選の試合を禁止された。このために我々はホームでプレーできくなった。 これらの問題に加えて、基本的な支援がなかった。1986年にイラクの唯一のワールドカップ出場を決めた監督、私の兄エドゥ·コインブラによってもたらされた歴史的な事実があっても、彼は最終段階で協会よりの受けるべき心遣いがなく、契約がなかったため私は彼を頼りにできなかった。フィジカルコーチのモラシーは最後まで私について行くことを決めたが、結局彼は同じ問題になってしまった。イラク連盟との良好な関係が築けなかった。 私を何回も勇気付けてくれたのは、才能のある選手で新しい世代が出てきたこと。ベテランたちが疲れ始めた頃に、若い選手が自然に入ってきて、私はチームの改革を開始した。それは、ワールドカップ予選の最後ラウンドでヨルダン戦での勝利に影響した。 戦争から出たばかりで戦争後による困難とまだ立ち会っている国の状況が大きな挑戦であったことを私は最初から理解していた。私はより多くの協力とより良い関係を持つことができたと思う。だけど最低限のことさえも履行されなかったし、結局私はFIFAに契約解除を陳情することになった。今回語った色々な理由のため、私はイラクには戻らなかった。私は、選手たちが前進し、障害物を克服するように願っている。常に私のためにメッセージを残しくれる多くのファンに対し申し訳なく思っている。 では、また来週! ……
11月25日に、フラメンゴ は下部組織カテゴリで2つのカップを獲得し た。ジュベニールはArtsulを3-0で下し、ジュニオールはPK戦でBotafogoに勝った。多くのサポーターが知らないかもしれないのは、この結果で表面化したのは、かつてフラメンゴの何人かの役員が有害であると言っ た、CFZとのパートナーシップ契約の成果がでていること。 OPGでの ジュニオールから始めよう。選手権の得点王は、私の友達アルシンドの息子でCFZのミリン・カテゴリーでキャリアが始まった、イゴール選手。我々は彼の世話をし、そして私自身が彼を鹿 島に行かせるように手配した。彼が鹿島に残らなかった理由は、話し合った後にイゴールが当時勉強を優先にするという決定で あった。 イゴールは、ラフィーニャやロマリオがいた攻撃側で才能を持つ選手のうちの一人だった。そして面白いことに、ちょうどその二人がCFZとのパートナーシップのおかげで、より直接的 に関与した選手たちである。我々は十数人の選手を受け持ち、逆に若手選手を送った。フラメンゴが成果を得り始めている頃、この作業を中止 する前にはCFZはそれらの補強でリオ選手権の3部に落ちるところだった。 フ ラメンゴのサポーターは、マルセロ・ヴァルヴェルデ、ルコン、アントニイオ、ターレス、ペカ、アメンドインなどの選手を知っているかな?彼らはどこにいるのかな?CFZは、これらの選手たちでたくさんのお金を受けてフラメンゴに傷害を引き起こしたでしょうか?最悪なことに、とんでもないことを言う人たちを信じる人々もいて、だれも何もしな い。 そして、常に非常に多くの 子供たちにプロでチャンスが与えられたが、ラフィーニャがテストを受けてない理由 を不思議に思う…..それはCFZの選手だったため?そして、そのジュニオールの多くの選手は、優秀な仕事をしてジュベニールで2010年に無敗の優勝を飾ったCFZ出身のコーチ、フェルナンド・ヴァヌッチが率いていたことを忘れてはいけない。 ジュベニールでも良いプレーをした、大会の得点王でもあるドゥグラス・バジオはArtsulと の決勝戦の2試合で3得点を挙げ、そして今年(2012年)に73得点を達成した。CFZリオから来たもう一人の有望な若手選手である。 サポーターのみなさんには当時、CFZ-FLAの契約はフラメンゴに有害だったと言う人たちにだまされていたことを証明するためにこれらの事実を伝えたいと思う。時が真実を見せてくれて いる。 また来週! ……