ジーコの部屋

フラメンゴ対サンタクルスのゴールシーン

[2009.11.06]

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ハットトリックのフリーキックによって失われた4つのポイント

[2009.11.04]

サッカーにおけるエピソードというのは、数え切れないほどある。そして面白いことに、そういう類の話は同じ試合、同じプレーで起こり、多くの場合は時の流れよって忘れられてしまう。にぎやかな会話の中、あるいはプレーシーンを再び見た時など、プレーヤーの誰かがそれを思い出す日まで記憶の中に埋もれてしまう。今、あるエピソードについて、ほこりを吹き飛ばして明らかにしようと思う。1987年11月22日に起こった話だ。 日付を挙げられても、連想することは難しいかもしれない。しかし、私がハットトリックを決めて、フラメンゴがサンタ・クルースを3-1で下したマラカナンでの試合だと言えば、フラメンゴファンには簡単に思い出せるだろう。最初のゴールはクリアされたボールから生まれた。2番目はPK、そして3番目はDFビリグィーが動かずにボールを見ていたシーンで有名だ。試合終了間際、DFビリグィーがフリーキックの「ゴールを見たかったので」、ボールを止めに行かずに、ただ振り向いて見ていたというのは皆が知っている話だ。 そして、あの試合ではもう一つの出来事だあった。それは私をだいぶ苦しめたのだが…。それについてお話をしようと思う。あの試合での知られざるエピソードだ。 最初の2つのゴールでは私はサポーターに向かって走ったのだが、3点目のゴールは自分のチームのゴールに向かって走った。それは、我々のゴールキーパー、「ゼー・グランダォン」(偉大なゼ・カルロス)と一緒に喜ぶためだった。私はゼーが歓喜の表情で私に向かって走ってきたのを覚えている。 「やった!すごいゴール!すごい!」と言ってた。 そして、ペナルティーエリアの直前で我々はぶつかり合い、私は彼の胸の中に飛び込んだ。その拍子に彼が急に私を離したので、私は地面に強く左膝を打った。非常に痛かった。 実は私はひざの手術を受けていて、4ポイント縫っていた(ブラジルでは"4針"とはいわず"4ポイント"という)。その縫った部分が避けてしまった。試合はもう終わる寸前だったので、私がゼーとのゴールセレブレーション(祝福)でケガをしたことに気づいた人は少なかったのでよかった。 私は常日ごろからGKたちと触れ合っており、彼らは素晴らしい仲間で究極のプロフェッショナルであると知っていた。一番最初に練習に出ていき、たいてい、誰よりも汚れて帰ってくるのがGKだ。だから私は、ゼー・カルロス、カンタレリ、ハウールやニエルセン(いずれも一緒にプレーしたことのあるGK。すべてを挙げれば10人ほどになるが…)のような偉大な友人ができた。だからこそ私は、ハットトリックを決めたときに、ゼーと一緒に祝わずに居られなかった。そのことで、自分自身がケガをするとは思ってなかったのだが…。 しかし、そんなハプニングにも価値があったのだ。面白かったのは、ロッカールームで彼があの出来事について説明するのを聞いたときだ。 「ジーコ、僕はそういう事に慣れてないのを分かってくれないと。普段はだれも僕と祝ってくれないだろ! だから混乱したんだよ」 皆が大爆笑、そして1人が加えた: 「ちっ、ゼー。ジーコは3ポイント(ゴール)を決めたが、結局、マラカナンで4ポイント(4針)を失ってしまったじゃないか!」 そしてゼーの"苦情"は価値があった。その日からは、我々はゴールの後には、必ず誰かが彼と祝うためにゴールまで走ることを決めた。我々はそうして連帯感を増し、マラカナンでインテルナシオナルとの決勝戦で優勝を確定した。 ゼーは合宿での遊びの試合で時々私のパートナーになり、スヌーカーの相手でもあった。我々が組織した奇特なイベントとお祭りゲームの全てに常に喜んで参加してくれた。 以前にもここで紹介した通り、そのゼーは今年7月。腹部ガンのため、47歳の若さで早逝した。またここで「ゼー・グランダォン」についてたくさんの話をしたいと思う。……

言葉の違い

[2009.06.11]

私は日本・トルコ・ウズベキスタンで仕事をしてきたため、我々ブラジル人にとって耳慣れない言葉やフレーズ、複雑な名前などの発音にだいぶ慣れてきた。発音の違いは子音が多く固まってるか、あるいは母音との組み合わせが変わっている。しかし、その言葉そのものだったり面白い発音が、違う国の言語では別の意味となる場合がある。 私は、日本で乾杯の時に使う言葉について既にここで話した事がある。もしブラジル人がコップを持ち上げて乾杯する時に「tin-tin」を言うと日本人達は大爆笑。偶然ではなく、ブラジル人達が乾杯の際にコップを近づく時に言う「tin-tin」は日本では別の意味を持っている。 私がトルコにいた間は、このようなジョークの対象となっていたのはチームのゴールキーパーだった。彼の名前はVolkanであり普通の名前であった。Volkanは、ブラジルではJoão やJoséのようにトルコにおいては沢山いる名前だった。しかし問題は名字にあった。彼の名字をポルトガル語にすると面白くなる。Volkanの名字は「Babacan」であって、ポルトガル語の「babaca」(バカ)の発音に似ているので、多くの人にとってジョークのネタとなった。 言語がロシア語に似ているウズベキスタンでは、同国の首都の名前の発音がジョークとなっていた。私と話したすべての友達が冗談を言いたがった。 「ジーコが今住んでいる所はどこだったけ?都市の名前は?」 私が、「タシケント」と答えると、必ず次のようなコメントを聞かされていた。 「まあぁ…こっちもだよ、ガリーニョ。すごく“タシケント”!日陰で40度くらい。」(「タシケント」の発音は、ポルトガル語では「タ・ケンチ」(暑いよ)に似ている) 実際には最悪なことに、タシケントでは痛むほど寒かった。 痛むと言えば、このような名前や発音についての違いで日本での面白い出来事を思い出してしまう。鹿島で我々チームに同行していた女性のフォトグラファーがいた。ある試合で私の蹴ったボールがピッチの外で写真を撮っていた彼女に当たってしまった。以降より親しくなり、彼女は私の写真を集めて素晴らしい写真集まで作成してくれた。 そんなある日、彼女に子供ができて既に名前が決まっているとの事だった。その名前について話していた時にポルトガル語にも通訳されていたので、そこにいたブラジル人達が笑っていた。その時に私がその場に着いたのでユミが話しに来た。 「ジーコさん意味がわかりません。ブラジル人は私の息子の名前を聞いてなぜ笑っているのでしょうか?」と聞かれた。 私は彼らが笑っているのをみて、これではユミが傷ついてしまうので彼らに落ち着くようにと頼んだ。彼らがどうして笑っていたのか私は理解しようとした。そして彼女の息子の名前を知りたかったので私は直接ユミに尋ねた。 「ジーコさん、もし男の子であればすごく素敵な名前です。“Shota”です。」 私は一瞬、彼女に知らせるべきかどうかについて考えてしまったがその場で知らせる事にした。“tin-tin”や“Babacan”のように同じ言葉でもそれぞれの国の言葉に置き換えると全く違う意味になる。 では、また!……

ペゥーと巨大なエビ

[2009.03.02]

ここCSKAに来る前に、元選手仲間であり「ジーコの部屋」のコーナーで数多くの話題になった人物、ペゥーを私の家で迎える機会があった。 彼はサイトへのリクエストをする為に私に会いにきたのだ。 「ガ、ガーロ(ジーコ)、どうしてなんだ、わ、訳が、わ、分からん。ぼ、僕、ペ、ペゥーが、も、もう、き、君の、さ、サイトに、で、出てな、ない!き、君は、ぼ、僕の、は、話を、わ、忘れたの、か、か?」とクレームを言った。 そう言う事ではなく、まだ他にたくさんの話を紹介する必要があった事を彼に説明したが、ペゥーは納得しなかった。そして彼は、我々がかつてフラメンゴ時代にブラジル国内や海外遠征での様々なエピソードついて話しだした。そのうちの幾つかは私がもう忘れていた事もあった。更に、最近アラゴーアス州の他の仲間たちのエピソードペゥーは話してくれた。 ペゥーはいつも我々を楽しませてくれる奴だ。彼のことを知っている人は‘多少’言葉をうまく話せないことを知っている。そして、ペゥーから聞いた新しい話の中で一番面白かったのは、試合の為にイトゥーの町に遠征したFWが、ホテルのロビーで受付係に、なぜホテルのホールにある大きなテーブルの上にとってのついてない大きなバケツがおいてあったのかと聞いたときの返答。イトウーは街のあちこちに巨大なスプーンなど、大きなオブジェがある事で有名な町である。 「あ~あ、又しても我々の仕立て屋が指キャップを薬箱の上に忘れて行った見たいだね。」と、受付係がベウーの友人に話したからである。 あの我々の80年代のチームが、「巨大なものがある土地」として有名である、イトゥー町で決してプレーした事がない事を思い出させた・・・しかし、ペゥーはそのサンパウロ州の町で起きてもおかしくないのと同じようなエピソードでイタリアのカプリで主役になった。 1981年に、ナポリで試合があったので、我々は、ナポリにある非常に美しい島カプリに行く事になった。チームが休みだった時に、ほとんど全員が勧められたシーフードレストランへ行った。そこに着くと、ペゥーが真っ青になっていた事に私が最初に気がついた。そのレストランには当時ブラジルでは存在しなかった特徴があった。食事に出される魚や魚介類は前方に露出されていた。彼は反応なくただ入口を見ていた。魚は水槽の中いて、その他のものはぶら下っていた。 ペゥーが先ず見たのは、大きなフックに掛けられていた巨大なエビ。それは、壁との間にある一種の柱のようだった。アラゴーアス州出身の彼は、あのようなものを見たことがなかったので、とても仰天していた。 「ペゥー、どうしたの?催眠術をかけられたのか?」と私が聞いた。 「い、いや、ガ、ガーロ…う、嘘、だ、だろう!!!」 私は尋ね、彼は繰り返し述べた「う、嘘、だ、だろう!!!」 みんながペゥーの周りに集まってきて、笑うべきか、なにをすればいいのか、分からなかった。彼が逆上していると思って、我々は心配していた。しかし、ペゥーにはそんな心配は必要なかった。 「お、おーい、ジ、ジーコ、み、みんな・・・ か、壁に、か、掛かって、い、いる、エビを、み、見て、ご、ごらん。す、凄い!・・・こ、ここの、エ、エビが、そ、その、お、大きいさ、で、あ、ある、な、ならば、、にわとりは、ど、どれ、く、位、の大きさなのだ、だろう!」 2分間の沈黙、そして全員の大爆笑。このような発言は、さすがにペゥー。彼は本当に面白い人… ……

オバマとアパルトヘイト

[2008.12.01]

サッカーは我々に素晴らしい可能性を与えてくれる、そのうちの1つに世界中を旅して異なる文化を知れることがある。しかし、時として想像できない事態に不意に出くわすと驚くことがある。数週間前、米国史においてバラク・オバマが初の黒人系大統領として選挙で選ばれた。ニュースでは人種差別について、またオバマが世界最大の強国のリーダーに達した事の重要性についてとても話題になっている。 今回の「ジーコの部屋」のエピソードは、オバマの当選によって、70~80年代のフラメンゴでの海外遠征での思い出が私の頭の中に浮かんできて思い出した事である。これまでにたくさんの奇妙な出来事やおかしい出来事があった。しかし人種差別をめぐる、私にとって特に印象的な出来事である。 我々は、現在において世界には狂信者がいることは知っている。しかしながら通常の場合サッカー界ではそういう問題は直接絡まない。人種差別についてもそうである。私にはそれは全く問題はなかったし、私の人生を知る人は若いうちに亡くなったジェラルドの事を知っている。彼は私の両親や私自身に対しては家族の一員として見られていた。そう、私の黒人兄弟であった。 1974年に南アフリカ経由をした際に、我々が経験したものは大きなショックだった。 ジェラルドは、他の黒人の仲間と同様に、我々と一緒にあの代表団にいた、しかし、我々はその国にあった差別レベルを知らなかった。それは、アパルトヘイト、白人とアフリカ黒人の間のほとんど完全な分離のシステムであった。黒人は白人と同じ場所に行く事は禁止されていた。とんでもないことだ! それは明らかに、我々全員を驚かせた、我々が帰国前にヨハネスブルグ都市をバスで観光しようとしたとき、最悪のハプニングが起った。クウェート発のブラジル行き便だったので、南アフリカの首都で9時間待たなくてはならなかった。我々は都市を観光するように頼んだ。代表団の担当者は、我々がどのように時間を有効に利用できるかを知るために代表者を訪ねた。そこでの話し合いは止まらなかった。一瞬厳しい口調にもなっていた。私もジェラルドと話していた。 「あの中では、大変なことになっているよ。」 地元代表者からの応答を聞いた時には、びっくりした。都市を観光するためには、黒人と白人を分けて、我々は2台のバスを使用しなければならなかった。もちろん、誰もその理由を理解できなくて混乱が生じた。こっち側で説明、向こう側で質問、そしてやっと明らかになったのが、代表者が黒人と白人を混ぜて我々のチームをバスに一緒に乗せたくなかった事。それは、法律に違反するからである。アパルトヘイトの法律。我々は空港にとどまることに決めた。我々は、空港の待合室で縛られて9時間も出発時を待ったが、強豪チームであったからという事ではなく我々は団結した。 このコラムでは、わたしは通常おもしろい話を持ってくるが、今回は我々にとって悲しいエピソードとなったものを用意した。言葉で何を言われても受け入れられない。あのハプニングを経験した全ての人は熟考した。なぜ白人が黒人・インディアンや黄色人種よりも優秀、または国別に優れていると考えられるのか? 神様のおかげで、サッカーは我々に肌の色や国籍では勝てない事を教えてくれた。そして我々に多くの寛容性や才能の優位性を与えてくれた。 オバマが、アフリカでアパルトヘイト打倒に貢献したネルソン・マンデラのような偉大なリーダーになれるように。 そして、全ての人類皆が肌の色ではなく人間性を見れるように、その戦うべき境界線をオバマが倒せるように。 結局、我々はすべて平等なのだから・・・・ ……

フェフージェン、サッカーの空想家

[2008.09.17]

サッカー界には、人生の歴史をテーマにした一冊の本が書けるくらいの人物がたくさんいる。彼らの歴史の様々な「へま」についてお笑い番組を作ったり、あるいは論文としても公表できただろう。そう、何人かの人物の歴史は、学問によってしか説明できないから... このコーナーでは、いつも好奇心が強くて面白い話を紹介し、フラメンゴ時代を知らない多くの人達にもその時に活躍した人物を紹介している。今回はフラメンゴのホペイロであった、フェフージェンとして知られていた、ジョルジェ・アントゥーネス。 シンプルな人で優秀なホペイロ、そしてフェフージェンは今なら、企業心に富んだ人とも言える。いや、より良く言えば...現在は、サッカー界の企業家またはマーケティングや投資営のプロとして比較されたかもしれない。皆さんの頭は今混乱しているだろうから、話に進めよう。 当時フェフージェンはリミーニャ選手と、用具室での会話から生じた約束があった: 「リミーニャ、僕のエネルギーは強いぞ。用具管理を見ていて分かるだろう。僕がサッカー界のプロになった事は偶然ではない。それは、純粋なエネルギーと大量の応援によるものなのだ...」 リミーニャは、話がどこまで続くのか聞いていた... 「ミッドフィールドはもう君のものだ。約束をしよう。君はゴールを決めるようになる、そして僕はその目的の為に君の力になる。そうしたら1ゴールに対して、君は僕に応援とエネルギーのお礼として50プラッタ(金による俗語)をくれる。」 リミーニャ選手は変な提案と思ったが引き受けた。1ゴールにつき、フェフージェンは50プラッタをもらう。まあ、そこまでは何ともない。我々はサッカーでそういう話は何度も聞いた事がある。しかしながら、70年代の初めに私が昇格する一歩手前に、フェフージェンの空想的な意見を聞かされた。 「ジーコ、君は知っているだろう。リミーニャが得点を挙げた時は僕が50プラッタをもらう。そして現在、彼は絶好調。その理由を知っている?僕のエネルギー、応援のお陰なんだ。失敗する事はない。数々の選手がフェフージェンを助けてくれる、そして僕は彼らと一緒にプレーをする。」 早速、私は頭で計算をし、リミーニャは1年間につき、6~8ゴールを挙げていた ... 「ちょっと待って。リミーニャの得点数は少ないし、私は前でプレーをする!もっとたくさんのゴールを挙げるはずなのに、なぜ同じ金額を払わなくてはならないの?」 フェフージェンは立ち止まり、少し考えてから言った: 「だから、それがもう1つの理由だ。フェフージェンとの組み合わせでもっとゴールが増える...」 私たちは大爆笑をした。当然、彼はすでに計算をしていて、私の場合にはもっとお金を儲かる事を分かっていた。数学にも空想家であったフェフージェン。だって、リミーニャはフラメンゴ所属の間には29得点を挙げた、そして私はプロとして508得点。頭のいい奴だったな。しかしながら、私たちは合意に達して、各ゴールにつき15プラッタを支払う事になった。 「リミーニャが支払っている金額より、3分の1だぞ。それでも、応援やエネルギーは強く、そして君は多くのゴールを決める。間違いはない...」 実際に私はたくさんのゴールを挙げた、そして空想家のホペイロは、この約束のお陰で15年の間、1年間に1ヵ月分の給料に等しい金額を確保した。フェフージェンはフラメンゴとサッカーを愛した素晴らしい人物であった。そして、その2つの情熱を結びつけた、ガーヴェアのピッチで心臓発作を起こし、亡くなってしまった。 フェフージェン、万歳! ……

Rondinelli万歳

[2008.08.09]

サッカーの醍醐味といえば何と言ってもゴールの瞬間だろう。特に貴重な、それこそ喉から手が出る程ほしかった一点をもぎ取った時等は全員大騒ぎで感情を爆発させる。私自身個人的に最も感動的だったゴールはと言えばLibertadoresファイナル(対 Cobreloa)の得点だろう。とにかく稀に見る大苦戦だった。ゴール自体決して美しい形ではなかったが本当に大切な一点だった。あの時の感情のほとばしりは今もはっきり覚えている。 今回のCantinhoはこのゴールの瞬間に因んだことを書いてみたい。最近久しぶりに昔の仲間達と懐かしい当時の話題をあれこれお互いに思いつくまま語り合うチャンスがあった。(メンバーは私とRondinelli, Julio Csar Uri Geller, Andradeと Adlio)その中で前にも触れたがRondinelli絡みのエピソードが大ウケだったのでさらに詳しく解説しよう。彼は現役時代、皆さんもよくご存知の通り毎回闘志剥き出しでつねに血を流しながら包帯ぐるぐる巻きでプレーするタイプの典型的な選手だった。その為サポーターからは“闘神”の愛称で呼ばれていた。実際チームにとっては本当に貴重な存在でその闘志で周りを奮い立たせ困難な局面を何度救われたことか! 彼にとって“諦め”という言葉は存在しなかった。そんなRondiの特徴が最も顕著に表れたプレーはあの対 Vasco戦の有名なヘディングシュート(1978)であろう。しかしながら我々仲間内での彼に関しての印象深い出来事といえば多少色合いが違ってくる。彼の場合当時チームの誰かが得点した際の祝福の仕方というかその喜び方が異常に過激だった。例えばゴールした仲間に対し皆が駆け寄り、飛び付き、しまいにはピッチ上で人間ピラミッド状になってしまう状況で彼はいつも最後に上から飛び込んで来るのだ。その勢いはちょうど敵にスライディングタックルをかます様な具合である。その瞬間彼の走るコースにぼーっと立っていようものならそれこそ怪我をさせられかねない程の勢いだった!本人はほとんど無意識だったらしいが仲間からは「Rondi,勘弁してくれよ!肘が目に入ったぞ!」「ん?、次は気をつける」だが実際は次も同じだった。「Rondi、膝蹴りはないだろう!気をつけろっ」「悪かった。絶対しないから」試合の翌日はかならず誰かがRondiのお陰で治療室通いとなる。こんなやりとりの繰り返しで数試合が過ぎたある日、誰ともなく「おい、いい考えがある!」と言い出した。「いいか、この辺で Rondiを何とかしなきゃ体がもたない。奴は口で言ってもらちがあかないからな。そこでだ・・・」次の試合に我々は計画を実行にうつした。この試合苦もなく先制点をもぎ取った自分達はゴールした奴をいつもの様に祝福しに駆け寄った。またRondiもいつもの様に後から突っ込んで来た。しかしこの後がいつもとは展開が全く違っていた。 「今だっ!」 掛け声と共に人間ピラミッドが一斉に散った。そこに飛び込んで来たのが何も知らないRondiだった!何事もなかった様にそれぞれのポジションに戻る我々。 ゲーム後Rondiが開口一番「チクショー!どうしてくれるんだ、お前達のお陰で腕、怪我したじゃないか!・・・でもまぁしようがないかぁ・・・もう二度と飛び込んだりしないから・・・」この一言でどれだけチームが安心したことか!またバンドエイド、鎮痛ゲルの節約になったことか・・・・。偉大な Rondinelli,王者フラメンゴが誇る真の闘神だった。……

芝あれこれ

[2008.05.03]

毎回このジーコの部屋では興味深い話題、お笑い系ストーリー等をみんなに紹介しているが今回は特にサッカー関係者は思わず唸ってしまう話題をお届けしよう。 過日の欧州CL、対チェルシー戦2ND LEG(スタンフォード・ブリッジ)での出来事だ。試合前私はピッチのチェックを行った際かなり足元が濡れていることに気がついた。チェルシーが故意に行った訳ではなかったが止める様に抗議した時には既に“時遅し”。ピッチはまさにイングランド勢に都合のよい状態となっていた訳だ。この種のことは言わば一つの“戦術”である。良い、悪いは別として少なくともこの様な行為をUEFAは認めてはいないことは確かだ。しかしながらピッチの状態を自分達に有利(あくまでもレギュレーションの範囲でだが)に保つことに対し私は賛成である。 同件に関しては日本での対ヴェルディ戦のエピソードを思い出す。私が所属していた鹿島のチームは当時、アジアのチームと違いスピード信仰ではなくブラジル流のボールタッチを大事にするチームであった。その為ホームのピッチの芝はレギュレーションで許される最も深い状態を常に保っていた。こうすることで我々のゲームコントロールが容易になるのであった。ある時ヴェルディのKazuyoshi Miura(長年ブラジルで活躍し『カズ』の愛称で有名。サントス、パルメイラス、コリチーバに所属)がブラジル人特有のノリでカシマスタジアムの管理スタッフに対し『芝が少し長すぎるので試合に影響が出るといけないので刈った方がよいのでは』と話しを持ち掛けた。思わず驚いてしまったのはこの敵の依頼?に素直に応じ様としていたスタッフがいたことだ。芝が短い状態はヴェルディのサッカーにとっては非常に有利だ。とっさに私はカズに『国立では好きな様にしてもらって構わないがここ鹿島では我々のやりたい様にさせて頂く』結局試合は我々の勝利。アウェーでは負けるかもしれないが鹿島では絶対に落とせない。確かに芝云々だけが勝負を決定づける訳ではないが勝利に対して貪欲にやれることは全て(勿論レギュレーションで許される範囲でだが)やるというのが私のモットーなのだ。 ……

宿題

[2008.04.07]

最近サイトを見返していて私の監督キャリアがスタートしてから早くも200試合に到達しようとしていることに気付いた。思い起こしてみると同じ様な経験を1975年にしている。というのは、この年にフラメンゴでの200試合を達成したのだった。数字というのは興味深いが実際、私自身、正直言うと特別気にしたことはない。子供の頃は細かく入団当時から試合数、得点数等いろいろな出来事ををノートに記録していたにもかかわらず・・・・。こんな事を冒頭に書いたのも今回のテーマと関係がある為だ。私がフェネルの指揮をとる様になってからチームに起きた幾つかの変化の中で特に著しいのはホームゲームの勝率が高くなったことだ。学業で例えれば“宿題(ホームワーク)”をきちっとこなすと言うか家でやる課題を確実にやると言うか。“宿題”で思い出すのは日本の鹿島時代のエピソードだ。 当時の若手で「古賀(コガ)」という選手がいた。ものすごくいい奴で名門大学を出たばかりのインテリだった。 あの頃驚いたのは選手達が監督が言ったことを全てノートにメモっていたことだが、コガもまたその中の一人だった。まるで学校で先生の授業をノートにとる様に。 そんなある日、インターナショナル・スクールに通っていた私の息子達が数学の宿題を持って来た。かなり難しい内容で子供等は苦戦していた。私は仕事で手が離せない。なんとか良い方法はないものかと考えたあげく思いついたのが『そうだ、コガに頼もう!』 翌日早速頼んでみたらすんなり引き受けてくれた。お陰で息子達は数学の点数が最高だっただけでなく数学に興味を持った様だ。さてそのコガはと言うと怪我のミルトン・クルスの代役として試合に出始めそのままレギュラーとして定着してしまったのだ!当時は冗談で「コガはジーコの息子の宿題を手伝ったからレギュラーにしてもらったんだ・・・』と囁く声も聞こえた程、偶然に二つの出来事の時期が重なった。私が一時期鹿島の監督をやった際にもコガはチームの為にいい働きをしてくれた。たまたまエピソードとして“宿題(ホーム・ワーク)の大切さ”を取り上げたが、実際サッカーに於いてもホームでやるべき事をきちっとこなすことは非情に重要な事だ。フェネルの選手達にも常日頃よりそのことを言っている。ブラジルのサッカー用語がたまたまホームゲームのことを“宿題”と表現するので今回のテーマとして取り上げてみた。「コガ、元気でやっているかい!?頑張ってくれよ!」ちなみに彼は現在鹿島の下部組織のコーチ(ユース監督)として働いてくれている。……

なんだ、その名前は!? パート2

[2008.03.26]

以前のジーコの部屋でビラウ・キサBilal Kisaのエピソードは続編があると言っておいた通り今回みんなに読んでもらおうと思う。多少理解するのが難しいかもしれない最後までよろしく。 ご存知の方は少ないだろうがトルコ語というのは複雑な言語だ。まぁ日本語もかなり複雑だが。日本で長年通訳として勤めてくれた鈴木は言ってみれば私の“声”として重要な存在であった。その役目をここトルコで担ってくれているのが SametGuzelという青年だ。年齢的には私の息子位の歳でフェネルの熱狂的なサポーターでもある。彼はブラジルのクリチーパに住んだこともあり今でも機会がある毎に友人達を訪ねている。「そのSametが今回のテーマであるBilal Kisaと何か関係があるのか?」という声が聞こえてきそうだが!我々ブラジル人はトルコ語の発音とか文字等言葉に関して事あるごとに彼をからかうのだが今回の件でも例外ではなかった。Ankaraspor戦前日からブラジル勢はずっと相手チームのキープレーヤーに対してからかい半分の“あーでもない、こーでもない”と繰り返していた。それをよく理解出来なかった Sametは試合後の食事の際に絶好のタイミングで我々の会話に首を突っ込ん出来た。モラシーが「まさに後半BILALが交代で引っ込んだ途端にウチラは良くなったよなー!」これを聞いたSametはいきなり得意顔で・u椈bし始めた「奴とはよく一緒に遊んだんだ!」と同時に我々は互いに顔を見合った(込み上げる笑いを堪えながら!)益々得意になったSametは「俺達は年も同じくらいでここイスタンブールで知り合ったんだ。奴はMarzifonなんだけど」ブラジル人の一人が「Sametは本当にBilalと“遊ぶ”のが好きだったらしいぜ」こうなってはもう止まらない。「親愛なるSametは子供の頃からちっちゃなBilalがどんどんデカクなるのを見てたんだよなぁ」「もう好きで好きでどうしようもないって感じで・・・」又別のがさらに「いつも一緒でBilalを放さなかったらしいぜ...」じっと聞いていたSamet は全くわかっていない。ただ何か変だなぁという感じはあったみたいだが。そして聞いてきた「みんななんで俺と奴の事知ってんの!?何年も前の事なのに・・」もう限界だった。みんなで大笑いをしているのを見て当のSametも意味がわからないまま一緒に大笑い。後で説明してやったけど本当に爆笑だったよ、あの時は。……

何かが変だ

[2008.03.18]

今回はここトルコでブラジル代表のドゥンガ監督のインタビュー(過日サンパウロのモルンビー・スタジアムで行われた代表のW杯予選試合で散々ブーイングを浴びた事に対し不満をぶちまけていた)をテレビで見ていた時に思い出したちょっとほろ苦いエピソードをご紹介しよう。 現役時代(フラメンゴ又は代表で)は何度も試合でスタジアムに詰め掛けた観客の怒りを買ったり罵声を浴びせられたりしたものだ。例えば78年W杯の強化試合。ブラジル国内のパラナ州でやった時は移動用のバスに石をぶつけられたこともあった。この頃は、よく強化の一環で国内を廻ってその州選抜と練習試合をしたものだ。こんな時は大体、地元ファンは自分達の地元である州選抜側につき自分達代表に対しては強烈なブーイングを飛ばすのが普通だった。自国の代表チームに対してまるで敵扱いというのも妙な話しだが実際によくあったことだ。まずチームの調子がイマイチだったり彼等の期待通り点が入らなかったりするともうすぐブーイングを頂戴することになる。 でも今回の話しは大量得点で大勝ちした時でもヤジられたというエピソードだ。 78年のW杯の翌年、オランダのアヤックスとの試合があった。試合といっても親善試合だ。しかしながらスタジアムに詰め掛けた観客は決して単なる親善試合とは受けとめていない殺気立った雰囲気があった。特に私に対してのブーイングは厳しいものだった。何事もなく平穏無事に終わるなどとはとても期待出来る様な状況ではない。まずは自分達が先制。程なくして追加点を上げた。この時点でもファンのブーイングはおさまらない。まさに地元出身以外の代表選手への手厳しい扱い。その後スコアは3ー0となり楽勝ムードとなった。しかしファンは一向におさまらない。とにかくチームは必死にプレーを続け私自身も最初の一点目(チームの4点目)を決めた。少しは状況が良くなるかと期待したが何もかわらなかった。そして私がもう一点。・・・・まるで変化なし。 そんな中、チームメイトのゼノンが私に『ガーロ、ガーロ、ありゃ一体どーなってんだ!?』と大声で叫んだ。『何がだっ!?』と私はゲームに集中しながら言った。『電光掲示板が3ー0のままだぜっ!』私はチラッと確認してから言った『全くここは掲示板までがよそ者の得点は認めないらしいな!』人生、生きているといろいろな事がある。今となっては笑い話だが当時は結構傷付いたものだ。 奇しくも今回のドゥンガの一件も同じモルンビー・スタジアム。 彼も私と同じ様にパウリスタ(サンパウロの出身)ではないのでヤジられたのだと思う。私個人としてはリオ X サンパウロのライバル意識は一度も持ったことはない。 サンパウロでプレーするのは実際楽しかったし親しい友達もたくさんいる。得点も結構したし、良い思い出がいっぱある。まぁ今回の様な苦い思い出も幾つかはあるが・・。よそ者の得点は記録しない地元びいきの電光掲示板の話でした。 ……

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