ニュース

25年が経って…

[2016.12.17]

現在行われているクラブワールドカップ準決勝、決勝に鹿島アントラーズの進出を確保した試合終了の笛を審判が吹いたとき、私は記憶は自動的に25年前に 戻った。三つの得点は、我々の伝統的な日伯友好カップにてCFZのフィールドでプレーしたことがある選手によって決められた(2007年・土居、2003 年・遠藤、2011年・鈴木選手が参加)。日伯友好カップは、1991年に日本のアマチュアサッカー2部のクラブの発展を支援してプレーする挑戦を私が受 け入れた時に始まったものの続きである。

当時ピッチは土で、スタジアムはなく、私のチームは茨城県鹿嶋市の工業、住友金属で従業員として働いてもいた。ちなみに、鹿嶋の町をよく知らなかった日本 人を見ることは珍しくなかった。翌年にJ-リーグの創設で日本でのサッカーはプロ化された。そのとき、私はキャリアをスタートし始めた少年であるかのよう であったが、そこでは経験からスポーツを発展する使命を持っていた。

私は当時の役員たちとの話しを思い出す。ゴールネットの色、サポーター構成を支援する必要性、スタジアム、外国人の来日、その上、選手が一人も他の仕事により疲れて練習に来ないようなチームを構成することについて。

私の仕事は、将来的に得る結果でのチャレンジだったことを私は覚悟していた。通訳の鈴木に会い友達になり、私はJリーグと対話するなど、プロ化に協力でき る全てのものをフラメンゴ、ウディネーゼやブラジル代表の選手としての経験上から探した。そして、私はその国の文化について学び、一定の引き換えで、そこ まで学んできたことを渡した。我々のフェイジョアーダ(ブラジルの豆料理)まで鹿嶋に持っていた!

鹿島では、これまでに多くのブラジル人選手やコーチングスタッフが仕事をした。ジョルジーニョ、ベベト、レオナルド、マジーニョ、モーゼル、アルシンドな ど、優秀な選手、スタッフ。そしてピッチ外で支援してくれた多くの人々。そのうちの一人は、プロとして私のインスピレーション、戦術や才能の育成において 深い知識をもつ玄人、私の兄、エドゥ・コインブラ、1995年に鹿島を率いた初のブラジル人監督である。

エドゥは、1996年にクラブの下部組織を見ながら、現在はプロチームに所属する、若い曽ヶ端ゴールキーパーの育成に支援した。ところで、レアル・マド リードと対戦するチームの小笠原キャプテンは、中田浩二と本山と一緒に高校から来たときに私が最初のシュートを指導した。そして、私は日本代表の監督とし て彼らに再会した。現プロチームに所属する何人かの選手は、キッカが発掘した選手なので、さらに誇りに思う。彼は、リオCFZの下部組織の元コーチで、鹿 島ユース監督として働いた。

クラブワールドカップ決勝で対戦する鹿島アントラーズを見る感動を言葉にするには難しい。10年前、世界の反対側に移動する前に、サッカー選手としての私 の最大の成果を経験した、同じ国。そしてそう温かく私を歓迎してくれて、2002年に日代表の監督として私を招待した国、そのことをとても光栄に思った。

多くの思い出、映像、勝利、そして25年後に残っている遺産はそこにあるとの確信。その遺産は私が重要な一部となっていることが山ほど良い感じをさせてく れる。サッカーで別の現実を体験しているレアル・マドリードとの対戦結果は、重要ではない。その勝利は、すでに鹿島とサポーターのものだ!

15443113_1257754807596924_555203322

 

in [ニュース] |

< 前の記事へ | 最新の記事へ | 次の記事へ >