バックナンバー

スターゲームからの寄付金

[2011.02.27]

ジャカレパグアー区の2つの慈善団体にジーコが直接訪問し、この試合の寄付金の最後の授与を行った。した。ジーコの他に、チャリティーマッチのコーディネーターのうちの1人、ジョゼー・マトスも同行した。 最初の寄付金は、身体障害者や精神障害者の24人の子供たちと10人の大人を援助するLar Maria de Lourdes[マリア・デ・ロゥールデスの家]に授与された。タクアラ区にあり、様々な分野の専門家のチームを持っている(社会福祉士、医師、歯科医師、栄養士、理学療法士、言語聴覚士と心理学者) ジーコは、管理人のマラ・ルシアに小切手を手渡した。彼女はこの寄付金に感謝した。 「我々がここでより消費されるもののうちの2つである、子供たちの薬と食品を買う必要があったので、とても助かります。我々のような施設は寄付金に依存しており、この小切手は大歓迎です」と述べた。 ジャカレパグアーからジーコはペシンシャ区にあるRetiro dos Artistas[アーティストリトリート]へと向かった。ここでは72人の居住者を支え、そして、そのうちの12人のアーティストは今月に到達した。彼らはそこで食事し、リハビリを受けたり、美容院でのケアも受けたりする。また、文化センターなどにに自分らの作品を公開し、ショービジネスの初心者のためにクラスを行っている。 訪問の間に、ジーコは、「コカダ」としてより知られている、アルタイール・ファリアスと話した。 この場所で最古の居住者は、ジーコと、そして献金の使い道をわかっている管理者のシーダ・カブラルと一緒に写真を撮った。 「再びこの寄付を受けることは喜びであり、我々はただジーコの寛大さと、このイベントに参加していただいた全ての選手やアーティストに感謝します。我々は毎日多くの食事を作っているので、このお金は、間違いなく、食べ物を買うにために使います」と、俳優及びRetiro dos Artistas会長であるエステパン・ネルセジアンを代表した、シーダが述べた。 スターゲームの献金を全て渡した後に、ジーコはミッションが達成されたと思っている。 「今年は山間地域での洪水被災者のためにイベントの半分以上の利益を寄贈した。それは、彼らが都市を建て直すために必要とするすべての事に対してはほんの1滴です。その惨事により、我々は他の団体を支援することができなかったが、私はそれでも我々の役割はもう一度達成されたと思っています。そして、我々は再びイベントに参加した選手と観戦してくれた人々に感謝しなければなりません」と述べた。……

in [ニュース]

全文を読む

Copa Zico Verãoの優勝チーム

[2011.02.24]

1月に行われた第2回版Copa Zico Verão【夏ジーコカップ】のファイナルはアントゥーネス競技場にてジーコの出席で開催された。合計4つのチーム(Oeste Rio【オエステ・リオ】、União【ウニアォン】、Carangola【カランゴラ】とMeninos da Vila【メニノス・ダ・ヴィラ】)にジーコからチャンピオンのトロフィーを授与される特典があった。 その日の最初の決勝戦において、オエステ・リオは逆転勝ちでカランゴラを2-1で下し、U-11カテゴリで優勝を制覇した。MateusLeischt選手がカランゴラの先制を決めた。しかし、その後すぐにJuan選手がペナルティーエリア外からのシュートで同点ゴールを挙げた。後半21分にLuccaOliveira選手がGKをカバーしてシュートをクリア、逆転勝利を決めた。オエステ・リオは、優勝に加えて、Fábio Alexandre選手が得点王を獲得した。 その後、ウニアォンは6-1でカランゴラを下し、ミリン・カテゴリーでの優勝を決めた。Victor Hugo、Lucas Augusto、Hebert Vinicius、Alecsander、José Victor とTiago Santana(8得点でU-13の得点王)がウニアォンのゴールを決めた。一方、André Júlioが相手チームに1点を挙げた。 インファンチル・カテゴリでは、カランゴラはDaivitOliveira選手の2つのゴールによってEstação Conhecimento【エスタサォン・コニエシメント】を2-0で下し、準優勝のシーケンスを倒して夏ジーコカップのタイトルを果した。最初のゴールは、ヘッディングで試合の初めに決められ、もう1つはロスタイムでのPK。U-15の得点王は大会で11ゴールを記録した、 BalneárioAngradosReis【バウネアーリオ・アングラ・ドス・レイス】チームのMatheus do Nascimento選手に決まった。 夏ジーコカップの最後の試合、U-17の決勝戦では、メニノス・ダ・ヴィラがAV.Sport【AVスポーツ】に2-0で勝利し、チャンピオンの呼び声を出した。優勝のヒーローは試合のゴールを決めたフォワードの Francisco Junior。一方、AV. SportのFelipe Pintoは得点王のトロフィーを貰った。大会のスーパーギャラリーをご覧下さい。 全カテゴリで、ジーコは、チャンピオンと得点王にメダルとトロフィーを手渡した。また、写真やサインを求める数多くの要求に答えて、ファン達を喜ばせた。……

in [ニュース]

全文を読む

ロナウドがピッチに別れを告げた

[2011.02.23]

私のコラムを常に読んでいる人は、私が1人の人物について話すのが非常に珍しいことを知っていると思う。私は通常、個人ではなくチームに対しての出来事を取り上げている。それは私がスポーツの中で常に団体性を重視してきたからである。ただ今回は例外としてロナウドが表明した引退について話したい。 彼が決断した引退について私が聞かれた時に、「彼と一緒にプレーしたかった」と答えた。それは本当だ。一緒にプレーしていれば私はゴール前の彼にパスを出せていたと確信している。私が1997年と1998年にブラジル代表のコーディネーターとして活動した時に彼と一緒に仕事をする機会があった。ロナウドは、間違いなく、歴代の偉大な選手と共に並んでいる。私がプレーを見てきた選手の中で彼は最大のスターの一人である。彼がブラジルで少ししか活動なかったことは残念だと思う。 彼は非常に若い時に外国へ移籍して、すぐに優秀なレベルに達した。クラブで活動して最優秀選手に選ばれた。ブラジル代表が獲得した2つのW杯優勝と1つの準優勝の時にチームにとって非常に重要な選手だった。さらに、W杯の歴代最大の得点王でもある。ロナウドは彼に与えられたあだ名「怪物」が良く似合っていて「怪物的」なことをした。 ロナウドのプレーを見て、私のサッカーの観方が何回も変わった。私はいつも静かに黙ってサッカーを見るのが好きだった。しかし、2002年W杯では、あまりサッカーが詳しくない妻サンドラの横で、私は彼のピッチでのポジショニングに注意するようにと彼女に言った。私はロナウドがプレーするのを見て、良く話すようになった。本当に彼と一緒にピッチに立ちたかった。 まるでプレーする才能が十分でなかったかのように、彼は深刻な問題を乗り越えなければならなかった。そこで彼はもう一つの側面、克服する能力を示した。彼は何回も困難を克服した。1998年のワールドカップに健康の問題を抱え、その後は膝の怪我が発生した。それでも彼はそれを乗り越えるために献身しトップに辿りついた。 多くの人が知らないが、彼は2002年のワールドカップ前のリハビリのために穏やかな場所を探していて、ジーコサッカーセンターを利用した。とても光栄だった。私は2002年W杯で彼の素晴らしいプレーを見たとき、彼のリハビリにおいて何らかの形で貢献することができた事を非常に嬉しく思った。優勝の決まった翌日、彼がトロフィーをもってブラジルに出発したとき、私が彼に電話したことを覚えている。私は、1998年の苦難の4年後に回復する機会を与えた神様に毎日感謝するようにと彼に伝えた。彼は復活して優勝する事が出来たのだ。 ロナウドについてまだ沢山の事を話せるけど、彼の幸運を祈って、ここで終りにする。彼の記者会見での別れの涙に感動した、これからは彼に新しい喜びが見つかるように願っている。「怪物」はサッカー史に彼の足跡を残した。 では、また! ……

in [ジーコの主張]

全文を読む

2011年のスタート

[2011.02.21]

2010年は様々な事があったが、仕事の上では私にとって良いものではなかった。プライベートでは、2人の孫が生まれたことは素晴らしかった。ガブリエルとアントニオ。今回は既に動きが活発になっている2011年の見通しについて話したい。 昨年、私は長い間選手、経営者や監督として海外で過ごしてきた生活から、家族のもとで過ごす事が出来ないか考えるようになった。そしてブラジルに戻ってからも海外からのオファーを受けた。未だに私が再び外国で働く事を誘うために連絡してくる。2010年の年末は何も変わりはなかった。ブラジルにもう少しいて、後でそれらのオファーについて考えたいと思った。しかし、今は家族と一緒に楽しみたいと思っている。特に3人の孫と。 私がフラメンゴの役員を受ける挑戦を決めた時、もちろん、私は色々な事を考えた。そしてクラブとの関係とリオデジャネイロでの生活をマッチすることができると思った。しかし、思い通りにいかなかった。詳細について再び話をする事はしない。ただ、この数ヶ月の経験は、サッカーにおいての権力の関係やマスコミについて現在どうなっているのか知る為にはとても勉強になった。長年、ブラジルの日常から離れていたが、本当に変化している! しかし、私にとって非常にポジティーブな出来事もあった。そして、私は2011年にそれらを引き続けるつもりだ。たとえば、ボタフォゴとのパートナーシップによってエンジェニョン競技場で2010年年末に再び偉大なスターゲームを開催する事が出来た。このコラムで改めて尽力してくれた人々に感謝を伝えたい。そして近いうちにチャリテイーの収益の分配が始まります。 そして年間を通じて我々はZico10サッカースクールを強化した。これから数ヶ月間に、私がもっと発展させるつもりであるプロジェクトである。我々は既に何十校を持っている。クオリテイを維持するために、拡大はゆっくり行われる。可能な範囲内で、今年はほぼ全ての開校に私は出席したいと思う。そして、私が多くの講義の招待を受けて、会社のイベントに参加することもとてもスムーズにいっているので、合わせて行っていきたいと思っている。さらに他の企画も準備しています。 フラメンゴに関するメッセージを待っている人には、私はいつもの通りにここにいると伝えたい。フラメンゴサポーターのままでいます。フラメンゴは父アントゥーネスの頃から、私の家族の情熱である。私は指導者が良い仕事ができて、最高の結果を持って、タイトルを獲得するように願っている。そして、数十年のプロジェクトが完了する必要があるので、トレーニングセンターの建設が進むように願っている。 皆さんから、2010の年間を通じて私にメッセージをくれた何千人へここで感謝を残しておきたい、そして2011年もサイトで私一緒に続けてください! ではまた!……

in [ジーコの主張]

全文を読む

日本が4度目となるアジア杯制覇

[2011.02.07]

先週末はアジア杯決勝の日本対オーストラリア戦をワクワクしがら観戦した。結果は李のゴールで日本が快勝。これでイラン、サウジアラビアの各3回を抜いて4度目の制覇となり文字通りアジアNo.1の実力を証明した。4度の内の1回は私が監督の時代のチームのタイトルであることも誇りである。とにかく手放しで嬉しい。今回のテーマはこれで行こう。 2002年、私が日本代表監督就任当時の同杯の優勝回数は、日本が1992、2000年と2度優勝してはいたが(韓国も2度)サウジアラビア、イランが上回っていた。アジア覇権の再奪取の重圧の中、我々は中国に向かった。現地の劣悪な環境は今でも忘れられない。最終的に決勝でホストの中国に勝ちカップを日本に持ち帰ることが出来た。以前からこのサイトをフォローしてくれている皆さんは当時のまるで戦時下の様な状況を記した同コラムを覚えておられるだろうと思う。歴史的複雑な政治背景を抱えた両国。我々が勝ち残って行く中、敵意むきだしの手厳しい扱いを受け続けた。そしてついにホスト国との決勝にたどり着く。試合前の国家吹奏から強烈なプーイングを受けたがグループ全員の驚くべき精神力と卓越した体力、技術で困難な状況を弾き返し3度目のタイトルを手にしたのだった。 今回優勝を果たしたチームでチームの中心として活躍した遠藤は前回の優勝にも大きく貢献した選手。他にも今野、松井、長谷部等私の時代から代表に駆け付けてくれた選手諸君が活躍している姿を見るのは本当に嬉しいものだ。大会MVPの本田に関しても私がロシアで仕事をしていた際に、 CSKAに推薦していただけにその成功は喜ばしい限りだ。就任したばかりの Albertoまた Zaccheroni監督にも心からの賛辞を贈りたい。氏は私が80年代前半にプレーしていたイタリア・セリエAのウジネーゼを 90年代に指揮し手腕を発揮されリーグ3位にまで押し上げ賞賛を得られた事をよく覚えている。 あらためて今回の優勝に際し選手諸君、監督を始めとした現場スタッフの皆さん並びにサポーター、協会スタッフの皆さんを含めたグループ全員に対し心より敬意を表します。この得難い経験と輝かしい結果は必ずや代表の将来また日本サッカー界にさらなる素晴らしい効果をもたらすと確信しています。 おめでとう、日本! ではまた……

in [ジーコの主張]

全文を読む

鹿島アントラーズユース新監督キッカの記者会見

[2011.02.03]

鹿島アントラーズユース新監督キッカの記者会見 CFZにおいて指導者としてのキャリアをスタートさせたキッカが、1月27日に鹿島アントラーズユース監督就任の記者会見を鹿島アントラーズのクラブハウスで行った。現育成部長である高島雄大がキッカを紹介した。(写真右) ……

in [ニュース]

全文を読む

< 2011年1月 | | 2011年3月 >