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ジーコ9年ぶりにリオのカーニバルに参加

[2010.02.28]

ジーコ9年ぶりにリオのカーニバルに参加 Zicoが約9年ぶりにリオのカーニバルを満喫した。2月13日から16日まで行われた今年のリオのカーニバル。初日は三男Thiago、Mariah夫妻が参加する Santa Cruz チームのパレードシーンをカメラにおさめる等カーニバルの名場面を撮影した。 また14日のスペシャル・ディビジョンのパレードではジーコ自身も観客席を飛び出し Unio da Ilha do Governadorや自身のお気に入りの Beija-Florのパレードに直接参加。久々のサンバの熱気に酔いしれた。        今年圧巻だったのは Unidos da Tijuca のパレード。その素晴らしいイリュージョン仕立ての趣向に観客席は総立ちで拍手を送った。……

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CFZとフラメンゴのジョイント

[2010.02.26]

ブラジルに帰国する前から、息子ブルーノがフラメンゴ社長パトリーシア・アモリンと、両クラブ間のジョイントについて話していました。私はオリンピアコスを辞めてリオ・デ・ジャネイロに戻っていたので、2月2日に行われた会議に出席することになり、既にその話による色々な解釈がありました。今回はその話について説明します。 先ず、私がはっきりしておきたいのは、3月末までにゆくっり休んで、家族と共にカーニバルと誕生日を過ごして、海へ遊びに行って、このおじいちゃんとしての生活を楽しみたいと思っていることです。しかし、私は今後もサッカー監督として海外でこのキャリアを続けるつもりです。7月までは、チームのスタートから仕事ができる良いオファーを受ける事は出来ないと思います。ワールドカップの年なので、変化は大会の後しか起こらないでしょう。したがって、それまでに私はリオ・デ・ジャネイロにいると思います。今年の後半には、監督として新たな挑戦をしたいと思います。 私が近年監督をして実際に見てきた暴力と人種主義による悲しい出来事にもかかわらず、現在は監督として仕事を続けて行きたいと思っています。今後も私が貢献できることはたくさんあると思います。 私はフラメンゴサポーターからのクラブの運営において役割を果して欲しいという気持ちは理解しています。私自身もフラメンゴサポーターですから。しかし、この時点ではそれは不可能です。私は、何十人もの従業員や家族が直接私に依存するサッカー・クラブのオーナーです。そして、私はフラメンゴを支援するために部長または会長にならなくてもできることがあると思っています。 私は、ブルーノ(CFZ社長)とパトリシアとの会議に出席し、そして、両方において非常に有効であると思う提案を作成するのを手伝いました。我々が話して書面にした内容によると、CFZはジュニオールとプロのカテゴリーではフラメンゴBになります。パトリシアは、海外交流への招待に応じることができないことや年齢制限をオーバーして評価されることができない選手たちの処遇ついて私に話しました。チームBを構成することは、パトリシアの選挙運動時の約束でもあります。 私が1996年に創設したCFZは、コーチ育成にも支援することが出来ると私は確信しています。例えば現在フラメンゴの監督であるアンドラーデはCFZでキャリアが始まりました。CFZを経てブラジルや世界に広がって活動している選手やコーチ陣のメンバーがいます。 もちろんリオにいれば、私は直接CFZにいるフラメンゴの20歳以上の選手や良好な可能性をもつジュニオールの選手も視察できます。それと同時に、良い選手がCFZの2部で競うのを手伝えられます。一方、CFZの下部組織は独立して活動を続けられるが、選手の利用優先は全てフラメンゴのものです。 こういうプロジェクトはブラジルや他の国では非常に一般的です。例えば、イタリアでユベントスとアタランタがそのような関係にあった事を覚えています。そして、レアル・マドリ-ドやバルセロナなどの大きなクラブはチームBを持っています。この提案は私が今できる方法で手伝う事ができ嬉しく思いました。私がこれまで多くの愛情を込めて創設したプロジェクトを生かせて継続する事もできます。更に、リオやブラジリアのクラブに加えて、我々はまだCFZの組織では、現在ブラジル各地で広がっている「ジーコ10」と言う名のサッカースクールがあります。つまり、フラメンゴへ才能のある選手を発掘し送ることが、現在の自分の監督としてのキャリアを続けて行く上で一番良い方法です。いつまで続くのか?それは時だけが答えることができます。 サポーターたちへメッセージを送りたいと思います。フラメンゴ社長との話では、ちゃんと準備がされていて、これから直面するトラブルに対して覚悟しているパトリシア・アモリンを見ました。サッカーだけではなくクラブ全体として言っていました。私は期待して、我々のフラメンゴのために皆が応援してくれるように願っています。 また来週!……

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日本とUEFAのアンバサダー、そしてFIFAから表彰

[2010.02.19]

年はまだ始まったばかりなのに、私は既に名誉のある3つの招待を受けました。誰もが、私がサッカーを愛し、選手として、今は監督として、フェアプレーなどの概念に従って、相手チームやサポーターを尊重してキャリアを導いてきたことについて知っていると思います。私はサッカーの社会的重要性と個人育成への貢献を信じています。スポーツの偉大な組織が私の仕事を認めてくれるとき、私はこの戦いが無駄ではなかったことを感じます。今週はこの3つの招待について話します。 私は1996年にFIFAよりOrder of Merit (FIFA功労賞)を受賞しました。1988年からサッカーの発展と振興に多大な貢献をした選手、役員、人物やクラブの栄誉を称える賞で第3人目の受賞でした。そして現在、22年後の現在17人の選手たちがその賞を受賞しました。 私は、リストで3人のブラジル人の間でペレ、ジルマールとサントス・ネベスと一緒にいます。私は栄誉を与えられた者として、南アフリカでワールド・カッププレイベントに参加するように招待されました。他に開幕戦に出席します。私はジョセフ・ブラッター会長に感謝し、誇りを持って行きたいと思います。私はきっと、偏見との戦いの象徴のうちの1人、FIFAより栄誉を与えられた南アフリカ人であるネルソン・マンデラに会えるでしょう。 FIFAからの栄誉の他に、欧州サッカー界で最大の連盟組織であり、そして会長が友人のミシェル・プラティニであるUEFAも私に特別な招待状を送ってくれました。アメリカでのチャンピオンズ・リーグ杯の初ツアーで、プラティニは私がニューヨークで行われる2月17日のトロフィー紹介のイベントでUEFAを代表して出席してほしいと依頼してきました。私が持つ、サッカー界で最も偉大なクラブ大会による思い出は数少ないが、幾つかの良い思い出があります。我々は、大陸でベスト8チームのうちにフェネルバフチェを持って行き、歴史的な結果を手にしました。 最後に、私の心を揺さぶる呼び出しが来ました。私は、私を鹿島の選手、クラブの役員、そしてナショナルチームの監督として受け入れてくれた日本に対しての愛情を誰にも隠しません。そして、日本サッカー協会の名誉会長、川淵三郎氏が、同国が単独で2018年または2022年のワールド・カップの開催国になることを目指すキャンペーンのアンバサダーチームの一員になるために私を招待しました。日本からの呼び出しを拒否することはできません。ナショナルチームの監督としての間に、私はワールドカップを開催する全ての条件を持つ同国をよく知ることができました。人間性の面とテクノロジーを合わせて、確かに素晴らしいワールドカップを主催できるでしょう。 これらの招待の重要性と誇りに対して、私がこのようなイベントに行くときは、私と働いた何十人の選手、対戦したライバルの選手、コーチやスタッフの貢献を私自身と一緒に持っていきます。自分には共に戦った多くの選手や指導してくれたコーチがいます。それは私が今の私になるために手伝ってくれた多くの人々です。結局、サッカーのあらゆる個々の賞の獲得には、その裏で集団作業の重要な量や質が必要です。それが我々のスポーツの本質です。 では、また来週!……

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スターゲームでの収益でワシントンを支援

[2010.02.15]

2009年のスターゲームを終え、2月9日にもう1つのエピソードがあった。ジーコによって招待され、元GKで解説者のハウール・プラスマンが、現在は神経変性疾患(筋萎縮性側索硬化症)の病気と戦いながらクリチバ市に住んでいる、フルミネンセの元FWワシントンへスターゲームの収益の中から5万レアルの小切手を渡された。お金は、80年代に活躍したワシントン選手の治療に使用される。 セレモニーは感動に包まれた。ハウールがジーコに電話をして、ワシントンにかわった。フルミネンセのアイドルは感動を抑えることができなかった。 「できるなら私が直接会ってお礼を言いたい。本当にこの気持は言葉にできない。 神様が君と君の家族を見守るように願っているよ。私は前から君を応援していたし、今後もっと応援するよ。私がどのようにそのお金を使うかについてはきちんと知らせたいと思う。お金はたいへん助かるけど、やはりこの愛情が一番大事だ」とワシントンが涙を汲みながらジーコへ語った。 サイトへのインタビューでは、ジーコはワシントンを支援できて嬉しいと言った。 「彼はとても感動していた。そして、我々がゼ・カルロスの家族とワシントン家族以外にも20の機関を支援しているので、私は非常に嬉しく思っている。私が言っておきたい事は、私は対戦相手をライバルとして見なかったこと。彼らはただピッチ内でのライバルであった。そして、その多くは4本線の外側では私の友達だった。ワシントンのような沢山の選手を称賛し尊重した。私は今回のお金が回復のために役に立つように願っている」とジーコがコメントした。 1983年にブラジル選手権の準決勝でアトレチコ・パラナエンセがフラメンゴを2-0で下した試合のような昔の対戦をジーコ、ハウールとワシントンが再び思い出した。 「コウト・ペレイラ・スタジアムで私はその試合の2得点を決めた」と、その後にフラメンゴの優勝を見たワシントンが思い出を振り返った。 ハウールはFWとの直接対立を思い出して話した。 「私がゴールにいた時、ワシントンがどれくらいの得点を決めたかについて、覚えていない。私はそれを思い出すまでもない。しかし、私は今日この瞬間に立ち会えてよかった。ジーコがクリチバへ行くことが出来なかったので、私に電話くれて小切手を渡すように頼んだきた。そして、今日私は、私の人生を苦しめた名FWに小切手を渡すよ。彼のためにそれを実施できるのは大変名誉なこと」と元GKが述べた。……

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スターゲームの寄付金

[2010.02.14]

年末に行われたスターゲームの収益金の中から、R$ 50000が癌の為に昨年7月に逝去した元フラメンゴのチームメイトである Ze Carlosの家族に手渡された。寄付金はマラカナンスタジアム内のホールにて元フラメンゴのGKであるAline Araújo、ジョルジーニョ、ジーコの息子であるジュニオールらが同席し行われた。 「元同僚で個人的にも親交の深かったZe Carlosはマスターズの第一回目のイベントから参加してくれていた自分達にとってかけがえのない仲間だっただけに、亡くなった事は大きな何かを失った様だ。彼のご家族に少しでも役立て頂ければ幸いだ。」とジーコがコメントした。 同席したジョルジーニョのコメント「相変わらずZicoの気配りには頭がさがる。今回もイベントの収益の大部分を恵まれない子供達の施設に寄附した他にZe Carlosの家族、またWashingtonの治療費の一部にあてた。常に身近の人々の苦しみ、悲しみを察知して実際にアクションを起こす人間なんだ。亡くなった親友の Ze Carlosはフラメンゴの僚で約6年間ルームメイトだった。良い時も悪い時もいつも一緒に分かち合うったまさに兄弟だった。」……

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ジーコ、Beija-Florを訪問

[2010.02.12]

10日、ジーコはリオのカーニバルに出場するグループである、Beija-Florを訪問した。リオの新聞”O Dia”にもその様子が取り上げられた。 ……

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マラカナンでのジーコ引退試合から20年

[2010.02.09]

  ちょうど95,451人の観客が、1990年2月6日の美しい夜に、マラカナン・スタジアムでのフラメンゴのジーコ最後の試合に立ち会いました。1991年にジーコは再び選手として日本の住友金属・現在の鹿島アントラーズでプレーすることになったので、この引退試合は結局選手としては最後の試合にはなりませんでした。しかし、その試合は一味違いました。ジーコは未だに、日本での経験はフラメンゴやウデイネーゼでの1967年と1989年の間とは異なる経験として分析しています。それは、彼はただ選手としてではなく、プロサッカー発展においてクラブをサポートするために現地へ向かったからです。   「本当はもっと前に引退するはずだった。1989年にも私が引退記念イベントが出来ればと言った。そして3月には既に、私がブラジル代表のユニフォームを着てウディネにて最後の試合が行われた」とジーコが思い出した。   「ジーコ・プロジェクト」として呼ばれたイベントは、彼の偉大な友人で初の伝記作者である、Marcus Vinícius Bucar Nunesによって計画されました。ジーコは前半に1981年のトヨタカップの優勝したチームで出場し、後半には1990年のチームで、世界のスパースターチーム(ワールド・カップ・マスターズ)でプレーした。   ジーコにとってその日、感動的な思い出のうちの1つは翌朝に新聞を読んだ時でした。Jornal do Brasil新聞でArmando Nogueiraのコラムが、名選手の瞳から涙を零させた時評欄「最後の夜」を載せました。   前座では、キンチーノでジーコがプレーしていたチーム、ジュウベントゥーデのAとBチームが参加しました。ピッチには、多くの幼馴染と4人の兄弟:ナンド、エドゥー、トゥニコと亡き兄アントゥーネス。その夜の第2試合目の前座は、エドゥーとジーコによって創設されたNova Geração(新世代)の少年たちで構成されたチームが対戦しました。息子たちのチアゴとブルーノは白と青のチームで出場しました。その試合は40分(20分ハーフ)で行われ、そして両チームでプレーしたチアゴはPKゴールを決めました。   「思い出に残る感動でした。満席のマラカナンで素晴らしいイベントでした。現在、我々が行っているスターゲームの予言のようなものでした。選手たちは出演料を請求せず、全ての収入は病院を建てるためにCasa do Hemofílico(血友病患者の家)へ寄贈されました」とガリーニョが強調した。   主な試合は、ワールド・カップ・マスターズの2つのチームに対して、前半には1981年のフラメンゴチームが対戦し、そして後半では1990年のチームの番でした。国際的なスターの中には、Gentile、 Krol、 Breitner、 Causio、 Mario Kempes、 Hansi Muller、 Tarantini、 MadjerとRummeniggeがいました。Michel Platini、 Fillolと Maradona は試合に間に合いませんでした。しかし、試合で注目を集めたのはジーコのシュートを止めた若いTaffarelでした。彼は数年後、ブラジル代表チーム歴史の中で、偉大なGKのうちの1人となりました。   「あの夜を思い出すと、最も記憶に残るのはサポーターのエネルギーです。私は、20年経っても、経歴の間で与えられた愛情(その日には私は強く感じることができた)において感謝せずにはいられません。私は未だに、あの時の入場券を持っていて、あのイベントに出席したと言うことを告げたい人に会います。多くの人々が支援してくれたが、友人のMarcus Vinicius Bucarは試合の実行については重要な存在でしたので、彼にも感謝しなければなりません。私の引退試合であり、辞める時だと覚悟していました。今でも思い出す価値のあるイベントでした。運命が再び私はプレーすることを望みました。しかし、私がいつも言うとおり、日本では異なった経験でした」とジーコが述べた。   ……

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”Veja Rio”のインタビュー

[2010.02.08]

 今号の”Veja Rio”にジーコのインタビューが掲載された。 Patrick Moraesによるレポートで、ジーコとエドウーがインタビューを受けている。タイトルは”ジーコが帰ってきた”。 http://vejabrasil.abril.com.br/rio-de-janeiro/editorial/m1705/a-volta-do-galinho ……

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プラティニがジーコを招待

[2010.02.07]

2月2日にジーコはUEFA会長ミッシェル・プラティニから特別招待を受けた:ポルトガルのEusebioとオランダのDavids名選手と共に、アメリカ合衆国でのUEFAチャンピオンズリーグ・トロフィー・ツアーのUEFAアンバサダーとしての参加要請する内容であった。 「世界サッカーの歴史で最も偉大なプレーヤーの中の1人であるため、ジーコが私の代わりにUEFAを代表することができれば、私にとって名誉になります」とプラティニ会長が手紙の中で強調する。 アメリカ初上陸のトロフィーツアーは、2月17日にスペシャルイベントが行われるニューヨークから始まる。その後、マドリード(5月22日に大会の決勝戦が行われる場所)で4月16日にツアーが完了される前に、ボストン、シカゴとロサンゼルスを回る。 「私は喜んで友人プラティニからの招待を引き受けずにはいられませんでした。ファンたちへ杯を持っていくこの作業は大事なことだと思います。現在、チャンピオンズリーグは世界で最も重要なスポーツイベントの一つです。そして、言うまでもないEusebio とDavidsと一緒にアメリカ人へこの大会の美しいトロフィーを紹介できることは私にとって光栄です」とジーコがコメントした。 トロフィーは既にアジア、ラテンアメリカ、アフリカ、そして最近で東ヨーロッパを回った。2008年にブラジルへも行った。その時の現地のアンバサダーはBebeto、GiovaniとElberであった。 他の2人アンバサダー Eusébio da Silva Ferreira、ポルトガルの名選手Eusébioは、サッカー歴史においてベスト・プレイヤーのうちの1人として考慮される。彼はアントゥーネス(ジーコの父親)が心を寄せていたクラブ、Sportingでキャリアをスタートした。しかし、1960年と1975年の間でプレーしたBenficaのシャツを着て名選手としての経歴を構成した。 Eusébioはキャリアで合計733得点を記録した。70年代の間に、アメリカで4つのチームで活動した:Rhode Island、 Boston、 Los AngelesとNew Jersey。現在はポルトガルサッカー連盟を常に支援している。 一方、Davids として知られるEdgar Steven Davidsはオランダ人でMFとして活動し、2008年にオランダで当代の重要な選手の1人となってサッカーを辞めた。1973年にスリナム(1975年までにオランダの植民地)出身で、Ajaxでキャリアをスタートし、そこで引退した。1992年から1996年の間に同クラブで活動した。しかし、海外のクラブで注目を集めた。 DavidsはMilan、 InterとBarcelonaを通り、しかし3つの国内大会(1998・2002・2003)を獲得して輝いたのはJuventus所属の頃であった。オランダ代表においては、UEFA欧州選手権2000で彼が代表チームに招集された時の活動が目立った。 以下はミッシェル・プラティニからの手紙 ……

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より大事なものに専念するための一時

[2010.02.03]

私はリオデジャネイロでの自宅に戻ってきました。日本、トルコ、ウズベキスタン、ロシアとギリシャと、監督として忙しい数年間が経った後、少し家族と一緒に休んで、考えるための時間だと思っています。特に、私のために用意された特別な歓迎の後に確信しました。これが今回のテーマです。     私はサッカーを主な仕事としている数十年間、自分の家族の多くの重要な時間を失うことになりました。このことは私にとっては決して簡単なことではありませんでした。私の子供たちは、合宿で父が電話にて、彼らの学校の宿題を果たすために努力をしながら、育ててきました。日ごろの恋しさが常に休み時間を非常に熱烈な時間にしました。妻サンドラは、子供たちとサンドラ自身から遠く離れている事が、私にとってどれだけ難しかったか分かっています。しかし、運命によって、選手としてはピッチを去った後にも私はサッカーのプロとして続けることになりました。2002年以来、監督として働き、私は再び子供たちや妻の誕生日、大事な瞬間に出席することができませんでした… そして、私の初孫フェリッペの誕生にも伴うことができませんでした。   今回、私が家に着いた時に、妻サンドラ、子供たち、そして子供の奥さんによって用意された素晴らしい敬意が私を待っていました。このコラムで、私がその時に泣いたとは言いまでん。もちろんそう言わないが、大きな感動が私を包んだ事は確かです。結局のところ、我々の家族の愛情が大事です。仕事は私に多くの喜びをもたらしてくれました。常にそうでしたが、やはり家族の感情とは比較できません。休息をとって家族との時間に専念しようと思ってギリシャを去り、自宅の部屋に入ってベッドの上のコメント、写真やポスターを見た時、私は仕事を一時停止する時間だと確信しました。   先週に私がこのサイトで発表した、仕事を一時停止すると決断した事が今回のギリシャでの解任と関係があると思い、多くの人が私に問いかけました。実際にはギリシャで起こった事が、私が以前から考えていた事を早めたたけです。ここ数年、私がサッカーで見てきた暴力が私の仕事の休止の主な理由です。そして自然的に、家族、得に孫と一緒にいたい気持ちが加えわりました。   過去8年間、私は自分の誕生日をほとんどいつも合宿で選手やコーチ陣と一緒に、あるいは、旅行中にホテルのルームで過ごしました。子供たちによって用意された別のパーティーもありました。リオで私の写真を使用して、何とかして私がそのパーティに存在するようにしていました。仕事についての自覚があっても、私は家族と一緒にいたかったので、常に痛みを感じていました。   現在、私はカーニバルで家族とともに過ごす(8年間もしなかったことですが)機会があります。そして、私の誕生日の日に起こるかもしれない、2人目の孫誕生に伴うことができます。この先には多くの喜びと感動が待っています。私は今はそれらを見逃したくないです。   もちろん、サッカーは自分の血に流れ続けています。監督としての仕事は私に喜びや良い瞬間を与えてくれた、しかし、今は私をいつも応援してきた人達へ、より時間を専念する時です。そして、ワールド・カップまでこのまま続くでしょう。少しリオのCFZと共に過ごし、フェリッペといっぱい遊んで、2番目の孫誕生をみて、サンドラと子供たちともっと一緒にいたいです。そしてW杯後、監督として再び働くかもしれません。シーズン開始前に、始めからのプロジェクトを引き受けられるかも?それは誰も知りません。しかし、今はその答えを探さずに、休んで楽しむ時間だと思っています。   では、また来週!      ……

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Zico、W杯日本開催招致アンバサダーに

[2010.02.02]

2018年、2022年の自国開催に立候補する日本にとりいよいよ世界を相手にした戦いが始まった。今回は2002年の日韓共同とは違い日本の単独開催を目指す。決定は今年の12月となる為候補の国々は時間との戦いとなる。投票権を持つFIFA理事は24名。票を獲得する為の各国の戦略が注目される。 先週、日本のW杯招致委員会は正式に7名の招致活動アンバサダーを発表。同国サッカー協会名誉会長Saburo Kawabuchi氏よりの依頼を快諾した Zicoも名を連ねた。また招致委員会関係者は近々Zicoを訪問し活動に関する詳細の打ち合わせ並びにコメント撮りを検討している。       ちなみにZicoが日本代表監督時代Kawabuchi氏は同協会会長、Tashima氏は技術委員長であった。     ZICOコメント「自分と日本の結び付きは既に周知の通り確固たるものがある。特に90年代前半は鹿島アントラーズを通じ日本サッカーのプロ化に全力を尽くしたつもりでいる。特に日本のファンの方々に対してはアントラーズ、代表時代を通して大変お世話になり今でも特別な感情をいだいている。この度Mr. Kawabuchiより アンバサダーの依頼を頂き即座にお受けした。日本は単独でも充分に素晴らしいW杯を開催出来ると確信している。2002年での施設の充実度や円滑な運営を見ただけでも充分にご理解頂けると思うが、とにかく今回、開催権を是非とも獲得し世界を驚嘆させる様な大会を実現してほしいと心より願っている。Kawabuchi氏より格別なご配慮を頂き下記に私宛にお送り頂いた私信の抜粋を掲載させて頂く。」 『親愛なるジーコ このたびは招致アンバサダーをお引き受けいただき、本当にありがとう。日本サッカー界を代表して、お礼申し上げる。貴殿が招致アンバサダーをお引き受けいただけるという事実は、貴殿と日本のサッカー界の深い絆の証しと受け止めており、世界に対して大きなアピールになると思います。是非またお会いできる事を楽しみに益々のご活躍をお祈り申し上げます。 川淵三郎』 7名の招致アンバサダー: 特筆すべきは今回スペシャルアンバサダーとして招致活動のシンボルとして選出された鉄腕アトム(Astro Boy)だ。1952に日本に誕生したアニメのロボットヒーローである。彼は人間の感情を持つスーパーロボットとして現在と未来を繋ぐヒューマン・テクノロジーの可能性を世界にアピールする。7名のアンバサダーは以下の通りである。    7名のアンバサダーは以下の通りである。 Zico (ブラジル。鹿島アントラーズの元選手、監督、総監督を経て2006年ドイツW杯日本代表監督) Guido Buchwald (ドイツ。元浦和レッズの選手を経て同チームの監督、役員を歴任) Dragan Stojkovic (セルビア。名古屋グランパスエイトの選手を経て同チーム現監督) Ivica Osim (ボスニア。元JEF United、日本代表監督)  Philippe Troussier (フランス。 2002年W杯日本代表監督) Makoto Hasebe (現ドイツWolfsburgの選手)  Shunsuke Nakamura (現スペイEspanyolの選手)……

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Esporte Espetacularでのジーコインタビュー

[2010.02.01]

TVグローボのEsporte Espetacularでジーコにインタビューが行われた。……

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