[2009.03.31]
キンチーノ区でまだ「アルトゥールジーコ」として知られていた頃、細い男の子はストリートサッカーの他に、ハイチ学校に通っていた。ほぼ50年後、当学校の現在の生徒達がジーコサッカーセンターのジーコギャラリーに訪問、アイドルとの親近感を高めた。
最初の訪問は、同じキンチーノ区の私立学校オズワルド・テイシェイラから行われた。次の日にジーコサッカーセンターで午後を過ごしたのは、ハイチ学校の生徒たち。プロジェクトコーディネーターのマルコ・セルケイラが説明する通り、学校の選択は、最初の段階では、ガリーニョの個人的でノスタルジックな基準によるもの。
「ジーコがキャリアの初めに練習に通っていた道程、キンチーノ駅とセントラーラル・ド・ブラジル駅の間の列車の線の近くに位置する市立学校が招待されます。」
このツアーはサッカーセンターのミーテイングルームから始まり、生徒たちはジーコの人生についての説明を受ける:コインブラ家族の祖先から現在のロシアで監督としてのキャリアまでが説明される。スクリーンでジーコが生まれ育った家が写った時は皆が大騒ぎ。大多数がその場所を知っているから。説明の終りには、マルコは景品が与えられる抽選会を行った。
ランチタイム後には、ジーコギャラリーを見物する時間だ。ジーコ展示に利用されていたスペースは改装された。ボールの形をしている構造で床在に人工芝を利用し、そしてジーコと一緒に写っている家族、選手や有名人の写真がパネルになって展示されている。引き伸ばした新聞記事はガリーニョについて興味を引く話を明かしている。近いうちに、アイドルのゴールを示する為のテレビが用意される。
散歩はCFZのピッチで終わり、そこで子どもたちは自由に走ったり、選手の真似して遊んだり、チームのようにポーズして写真を撮った。子どもたちは帰る前に、さらにガリーニョの歴史を語る本をもらった。
アルトゥールジーコのような細い男の子、マテーゥス・ヘベロは初心者の頃のジーコの写真の横でポーズする。プレーヤーになる意志は大きい。ただ彼がプレーしたいチームが異なる。
「ジーコは好きだけど、僕の好きなチームはバスコだ」
彼の母親、教師のカルラ・ヘベロは、心のチームに関係なく、子供たちのサッカーとの親和性を確認する。
「ジーコが住んでいた場所を生徒全員が知っています」
マルコ・セルケイラがジーコについて子どもたちに話す…
子どもたちはサッカーセンターのピッチで自由に遊ぶ。
ハイチ学校の記念写真。
生徒たちはジーコの本をもらった。……
in [ニュース]

[2009.03.28]
ジーコは28日に、生まれ育ったキンチーノ区にて公立学校の学生達を対象にする新たなプロジェクトを開始する。それは、“Projeto
Golaço Social” (社会的スーパーゴール
プロジェクト)、今回は“ジーコ10スクール”によって、ジーコサッカーセンターの経験によるサッカースクールです。同プロジェクトは500人の子供たちを援助し、ガリーニョが幼い頃に住んでいた家の近くヴィタル通りにて開校されま.す。
ジーコはCSKAの短い休みを利用してこのプロジェクトの発表の為帰国します。28日はさらに、リオデジャネイロにおいてプロジェクトを20校まで拡大する協定のサインのためにエドゥアルド・パーエス市長も出席します。このためイベントは朝から始まり、その後に記者会見を行い、キンチーノ友達 対 フラメンゴマスターによる親善試合も行われます。
……
in [ニュース]

[2009.03.26]
サッカースクールZico 10は、ガウッショ(リオ・グランデ・ド・スール出身の人)の発音を身に着ける。リオ・デ・ジャネイロとブラジリアのCFZプロジェクトは、リオ・グランデ・ド・スール州のカノアスの都市で1校を開校する。スクールは、Canoas Shopping のArena Sports、Coball とPolisportで4月から始まる。更に地元の貧しい人にも参加可能な社会的プロジェクトも用意している。スクールの生徒の中から優秀な選手はCFZのプロクラブの下部組織に参加できる可能性もある。
「Zico 10は国内での最大のサッカースクールになる事を目指しています。現在は120校で1万人の生徒がいます。我々は5年間で1000校ものサッカースクールを開設したいと思います」と、Zico 10の担当スタッフであるファービオ・ソドレーがDiario de Canoas新聞に語った。
リオ・デ・ジャネイロにおいて10校となる4月からは、リオ・デ・ジャネイロでもさらに3校が開校される:ヴィラ・ダ・ペンヤ、ジャカレーパグアーとチジュカ。州で他の7校に加えられる:ベント・ヒベイロ、タクアラ、ピエダデ(フットサル)、アボリソン、サンタ・クルース、ペトローポリスとテレゾーポリス。……
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[2009.03.25]
日本代表監督を辞任して以降、ジーコは日本を訪れる機会がまだありません。しかし、遠く離れていてもジーコは日本と強い絆を持ち続けています。同国でJリーグ創設期より鹿島アントラーズが国内で名門サッカークラブになるために寄与し、日本代表監督を務めた後に、今現在ジーコの名称はフットサルの普及のために使用されています。
「ジーコ・フットサル・スクール」は子供の普及・育成を目的としたプロジェクトで、2月21日、東京・味の素スタジアムにて”COPA ZICO KIDS FUTSAL FESTIVAL 2009”を開催しました。参加チームは64チーム、6歳から11歳までの合計700人の子供たち、コーチ陣やスタッフを加えて参加者は約1500人でした。
スクール代表は Ichizo Tsukimori 氏、そしてプロジェクト・マネージャーはGaku Watanabe 氏。大会とフットサルスクールの指導を担当するテクニカルディレクターは、元フットサル日本代表主将のTakaaki Ichihara氏。彼のアシスタントは、スペインリーグで活動した日本人初のプロ選手のMasaki Iwamoto氏。
「私は、この年代の子供たちにこのような機会を与えることが大事であると思います。そのような理由からブラジルでNova Geraçãoというチームそしてジーコサッカーセンターを作りました。私は子供の頃にフットサルをプレーし、多くの友人がいます。フットサルは私の人生と非常に関係があります。今回の大会の成功をすごく嬉しく感じています。」と大会の様子を聞いたジーコが語りました。
U-10クラス優 勝:レッドクローバーSC準優勝:SCH FC A3 位:SCH FC BU-12クラス優 勝:船橋イースト準優勝:ICL jr3 位:アオバフットサルクラブ
"ZICO FUTSAL CLUB DREAM CARAVAN 2009"として次のイベントの予定は3月27日と31日にTakaaki Ichihara氏と彼のスタッフによって6歳から11歳の子供を対象に行われる「 1Day フットサル教室」。最初のクリニックは味の素スタジアムにて、そして第2回目はフットサルアレナ豊島園にて行われる予定です。……
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[2009.03.24]
ロシア国内リーグの第2節、CSKAはTomskに開始直後に奪われた得点のまま追いつくことができず、0-1で敗れた。 UEFA杯の敗戦に続き、国内リーグでは初の敗戦となった。
ジーココメント「この様に負けてピッチを去るのはもちろん不本意だ。序盤一分も経たないうちに先制され必死に追い付く努力をしたが果たせなかった。この勝点の差をとにかくなんとかする為に戦う。 この様な状況はサッカーには付き物だ。」……
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[2009.03.23]
UEFAカップでShakhtar戦の為にモスクワから1時間半ほどのチャーターフライトにおいて、ウクライナのドネツクに到着した際、ジーコはフェネルバフチェのサポーターから歓迎を受けた。何人かのサポーターが、私にメッセージとクラブ色の花束でこの感動的な敬意を表してくれた。
ジーコはとても驚き、プロとして、このような歓迎をしてもらえる事は感謝した。我々は色々な場所で仕事しているが、それらで常に自分たちの足跡を残している。……
in [ニュース]

[2009.03.23]
ジーコがウクライナでフェネルのサポーターから歓迎された
UEFAカップでShakhtar戦の為にモスクワから1時間半ほどのチャーターフライトにおいて、ウクライナのドネツクに到着した際、ジーコはフェネルバフチェのサポーターから歓迎を受けた。何人かのサポーターが、私にメッセージとクラブ色の花束でこの感動的な敬意を表してくれた。
ジーコはとても驚き、プロとして、このような歓迎をしてもらえる事は感謝した。我々は色々な場所で仕事しているが、それらで常に自分たちの足跡を残している。……

[2009.03.21]
Shakhtar戦後のジーココメント
「正直ウチの出来はよくなかった。不用意にスペースを与えてしまい前がかりで勝ちにくる相手を抑えることが出来なかった。また予想していたことではあるがアウェー特有のジャッジが勝敗を決めてしまった。先ずPK。あれはシミュレーションだ。そして二点目、明らかにキーパーへのファウルだった。まぁ今さらしようがないが。相手が強豪な上に自分達の出来が本来のものでなければ当然の結果だ。とにかく切り換えて国内リーグに的を絞るしかないが本当に残念なのは今回の負け方だ。」……
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[2009.03.20]
UEFAカップ決勝トーナメント、Shakhtarとの第2戦が19日相手のホームDonetskで行われた。12日の試合でCSKAは1-0で勝利していたが、アウエーでの第2戦は0-2で敗れ、UEFAカップ敗退が決まった。
ジーコ監督のCSKAでの初めての敗戦となった。 ……
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[2009.03.19]
本日19日CSKAはウクライナのShakhtar Donetsと対戦する。
チームはモスクワから1時間半ほど飛行機で移動し18日の午後には試合会場でトレーニングをした。
……
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[2009.03.18]
独創的なアイデアのおかげで、ジーコの歴史を知っている多くの人々がアクセスできなかった資料がYouTubeに投稿された。Faco04と言うユーザーが、キンチーノのガリーニョの歴史を語る1976年発行のRevista Zicoのページをスキャンしビデオ編集をして投稿した。下記をチェックしてください! http://www.youtube.com/watch?v=Bfi_QXlRxqY&eurl=http://www.ziconarede.com.br/znrpub/news/pt_news_maisnotic.php?cod=4565……
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[2009.03.16]
CSKAはロシア国内リーグの初戦をアウエーSaturnで行い、Saturn Oblastに 3 ‐ 0 で勝利した。
得点者は後半24分Dzagoev、38分と42分に Ignashevich が決めた。
ジーココメント
「前半相手のチャンスらしいチャンスが二度程だったのに対しうちは序盤から動きがよかった。また Vagner Loveを温存し,初めて Daniel Carvalhoを頭から投入出来たのは収穫だった。スタメンの変化にもチームは動じず緒戦を勝利で飾ってくれた。これにより弾みがつくはずだ。チャンスを得た選手の勢いがチームを引っ張るのも素晴らしい。控えの充実ぶりも相手には驚異になるだろう。」……
in [ニュース]

[2009.03.15]
15日に我々はロシアサッカー・プレミアリーグの開幕戦のピッチへと臨みます。、ここ2年間に至っては、こちらで最も伝統的だと見做される3チームであるCSKAモスクワ、ロコモティフ・モスクワ(Lokomotiv)とスパルタク・モスクワ(Spartak)にとっては、決して楽なリーグとは言えませんでした。今週は、今後我々を待ち受けているこのチャレンジに関して話します。
ソビエト連邦崩壊後、1990年代初頭にロシアサッカー・プレミアリーグが誕生しました。初年度から9年間はスパルタク・モスクワ(Spartak)が頂点に君臨しましたが、ようやく2002年にロコモティフ・モスクワ(Lokomotiv)が連覇を食い止めて、その翌年にはCSKAモスクワが初タイトルを手にしました。初めてこの3強に割り込んで来たのは、2007年にタイトルを獲得してビッグチームの称号を手にしたゼニト・サンクトペテルブルク(Zenit)です。彼らはUefaカップの現チャンピオンでもあります。そして、昨年はルビン・カザン(Rubin Kazan)が国内タイトルを初めて制覇したのです。
現在のロシア・サッカーシーンは最低でも強豪6チームが熾烈なタイトル争いを展開できる状況にあり、昨年3位で終えたディナモ・モスクワも国内初タイトルに向けて闘っています。更には、ここ2年のチャンピオン同様に、発展著しい他のチームが頭角を現す可能性があります。合計16チームが、1ステージ制のホームアンドアゥエイ方式による2回戦総当たりリーグ戦にて、各チームが30試合戦うのです。そして、下位2チームが降格します。
昨シーズンCSKAモスクワは2位で終えており、今年の我々の挑戦はトップへと返り咲くことです。昨年のルビン・カザン(Rubin Kazan)のパフォーマンスを観察すると、最も大事な点はチームの好発進だと言えるでしょう。立ち上がりから10戦10勝でした。彼らは、勝点の蓄えができたことで、CSKAモスクワ及びディナモ・モスクワに対し優位な立場にいることができたのです。
結局のところ、行く手にはUEFAカップ、ロシア・カップとロシアサッカー・プレミアリーグが同時開催で行われることにより、我々のメンバーにとっては至難の日程となります。このような状況は過去に経験しています。そしていかに選手層が厚いグループを有することが重要かを教えてくれました。警告、怪我、体力消耗などが、同じメンバーでの戦いを繰り返すことを困難にします。その為最も理想なのは、選手達が壊れる前に、幾つかの大会で彼らを温存するように試みることなのです。
開幕戦は同じモスクワのチームである、サトゥルン・ラメンスコーエ(Saturn)とアウエーで対戦します。昨年のシーズンでは11位で終えたチームですが、我々にとっては現時点ではその事実は重要では無いことを自覚しております。昨年の覇者ルビン・カザン(Rubin Kazan)を例に挙げるならば、2007年のシーズンを10位で終えながら、その翌年には優勝を果たしているのです。
対戦相手にはブラジル人選手が一人所属しているようです。上記で述べた6チームのリスト内で、我々のモスクワでの最大のライバル勢が補強を行ったことは既に分かっています。全チームに外国人選手が在籍しており、ロコモティフ・モスクワ(Lokomotiv)は4人のブラジル人選手を有しております。スパルタク・モスクワ(Spartak)にはブラジル人選手が3名所属しています。従って、紛れも無くまたしても競争の激しいリーグ戦が待ち受けていることでしょう。
私のメッセージは恒例のフレーズです。我々は強化合宿で好内容のフィジカル及びテクニカル・トレーニングを行いました。その後もハードに献身し続け、良いメンバーが揃っており、モチベーションも高く維持しています。今は前進あるのみで、試合ではプラスアルファを出すようにして、必然的に現れるべく結果のタイミングを待つのです。何時ものことながら、皆さんの応援を期待しております!
それでは皆さん、ウン・グランデ・アブラーソ!
また来週お会いしましょう。 ……
in [ジーコの主張]

[2009.03.14]
は~い。今回は未更新の期間が長引かないように手短なポスティングだよ。何故ならば、慌しい日々がこちらでは続いているからね。誕生日、決戦、そして私のホテルから住居へと引越しの手配。その最中に、我々はロシア・スーパーカップを制覇。カップを手にしている写真紹介の前に、この場を借りて、温かいバースディーメッセージやフレーズに再度感謝するよ。そして、まだ疑問を抱いている皆さんには、私は寄せられる全てのコメントに目を通しており、可能な限りe-mailも読むようにしていることを伝えたく思う。但し、何百という数なので、徐々に作業を行い、全てに返事を書くことは出来ないが、読んではいるからね!
ブラジル人数人でのショット。パイシャォン、私、エドゥー、トゥーリオ。撮影はヴァーギネル・ラブ選手。
トロフィールーム拡大中…。
次は正にブラジル軍団。上記写真のメンバー以外に、ハモン、ラブとダニエオ・カルヴァーリョ。怪我をしていたヒカルドのみが不参加。
Shakhtar戦で貴重な一勝を得た、今週の木曜日の試合の写真。下記はCSKAモスクワ・オフィシャルサイトからの提供写真。本サイトをアクセスする者であれば何のことだか分かるよね。
リラックスした表情のテクニカルスタッフ…。
傑作だね。我らが通訳Maximはボールの持ち方まで私を演じてくれた。その通り、同調だ。
懐かしのシリーズで振り返る過去のバースディー写真。
Depois eu volto!
それでは、また後ほど!……
in [ダイアリー]

[2009.03.13]
12日、CSKAはホームLuzhnikiスタジアムでウクライナのShakhtar Donetsに1-0で勝利した。Vagner Loveが後半5分、PKで得点を決めた。
第2戦は19日に敵地ウクライナで行われる。
ジーコのコメント:「厳しいゲームだった。相手チームのブラジル選手はウチの戦い方をよく知っていたし、先日の決勝の疲れも残っていた。案の定、序盤は動きも悪く攻め口が見つからない状態でことごとく相手に封じられてしまっていたが中盤をいじることで前半のうちに形勢を変えることが出来た。なによりもホームを勝利で終えられたことが大きい。」……
in [ニュース]

[2009.03.12]
12日に行われるUEFAカップの決勝トーナメント2回戦、Shakhtar Donetsk戦の記者会見が11日行われた。その一部を抜粋します。 対戦相手SHAKHTAR DONESTKについて「我々はいつも非常に難しい相手を予想しています。私は、常に勝つために戦うチームでプレーしているブラジル人達を知っています。我々は、以前の試合同様に良いプレーを見せることを期待しています。」期待「我々は明日、選手全員がプレーできる状態にあることを期待しています。LoveとZhirkovはこれらの日に練習していないが、出場できるように、今日は練習してほしいです。」フィジカル部分「大丈夫だと思います。我々は非常によく準備しているので、怪我の問題がなければ、フィジカル部分において心配はありません。選手達はイスラエル、トルコで良いキャンプを行ってきました。」チームフォーメーションをキープ「ZhirkovとLoveがプレーできれば、チームはRubin戦時と同じスタメンです。」相手の弱点「そういう事私は、常に選手たちだけに話すようにしています。重要なものは、Shaktharが、我々と同様に、勝つ目的を持って臨んでくるチームであり、そのことを分かっていなければならない事です。したがって、私の見解によっては我がチームと相手は同じ状態です。」ロシアとウクライナの間の競争「相手がどの国かに関係なく、我々にとって重要なものは次のステージに進むことです。UEFA杯では、ウクライナをライバル国だと考えてはいけません。進出することを考えなくてはならないです。」初戦ホームの不利「それはないと思います。勝利して進出したいチームにはそういう考え方ではいけないです。Shakhtarは最初にホームゲームで次節へ進出、Chelseaもチャンピオンズリーグで同様でした。重要なものはホームで成果を出す事です。それに達成すると、進出のチャンスは80%です。」モチベーション「サッカーは11名でプレーするものではありません。控え選手も持つ必要があり、そしてCSKAはグループを持つ。したがって、常に選手のやる気を保つことが重要だ。出場停止や怪我もありえるので、全員がいつでも出場できるように準備が出来ていないといけない。だから、各ポジションに常に2人の選手がいます。ミニ知識 Shakhtar Donetsk1936年にウクライナ東部ドネツクの都市の名前で設立されたShakhtarは現在、旧ソ連でのサッカーの名門チームである。過去5季の間に国内タイトルを3回獲得し(2005年、2006年と2008年)、キエフ都市の伝統的なDynamoを倒した。昨年には、さらにウクライナカップとスーパーカップを優勝した。通常、同チームのユニフォームにはオレンジ、黒と白が使用されている、そして、 2年前にクラブの公式ロゴが変えられた。Shakhtar には、5人のブラジル人選手(イウシーニョ 、ルイス・アドリアーノ、ウィリアム、 フェルナンジーニョとジャージソン)とその他の国籍の外国人7人 (チェコ共和国、セルビア、メキシコ、ポーランド、ボリビア、ルーマニア、クロアチア)が在籍している。ブラジル人の中で、間違いなく、注目の選手はチームの2番目のキャプテンで、2005年からクラブに所属しているMFフェルナンジーニョ。Fernando Luiz Rosaはロンドリーナ市で1985年に生まれ、アトレッチコ・パラナエンセによって発掘され、同クラブからウクライナのサッカーへ移籍した。チームの指導者は、ルーマニア人のMircea Lucescu、元サッカー選手、そして、ルーマニアで最も成功した監督として指されている。選手としては、Dínamo Bucarestiや他の地元のクラブに所属し、1966年~1979年にルーマニア代表チームに選出された。攻撃側でプレーし、ルーマニア代表で74試合に出場して9ゴールを決めた。監督として1979年にルーマニアのチームでキャリアをスタートさせ、Lucescuはイタリアのインテルを含む長い経歴を持つ。トルコでは2つの主要なクラブを率いた:Galatasaray とBesiktas、それぞれのクラブで国内タイトルを獲得した。90年代に、イタリアリーグ2部のPisa Cálcioの監督に就任してから国際的な評価も得た。5シーズンの間Bresciaを率い、そして同チームと1部に昇格した。イタリアでの経歴によって1998年にインテル・ミラノからの招聘を受けた。……
in [ニュース]

[2009.03.11]
ハ~イ。今日は、強烈な一日だった。私の誕生日について話す前に、アストン・ヴィラとの対戦前に起こった出来事について話そう。以下の写真で、通訳者のMaximがシャツを持っていて、用具係のEliaが縫っている。そう。GKのシャツの袖が長すぎたので、それを切って縫っていたんだ。兄のエドゥーが写真を撮った。 選手たちは常に着ているユニフォームに対して気を付けなくてはならないから大事である。彼らは快適な気分でピッチに入る必要があるから。これは、当然のことながら気をつかう事なんだ。そして、我々のゴールキーパーは、試合で非常によかった! 私の誕生日について、届いたメッセージのうちの1つは、私の一日について尋ねてきた。さあ、先ず私が愛している人、サンドラのそばで目覚めて、トレーニングへ出かけ、そして、私は皆からの‘おめでとう’の言葉をもらった。しかし、トレーニングについては時間が減ることはなかったよ。 全てに対して、スタートが良ければ、良いファイナルになるチャンスが高まるので、スーパーカップ、UEFAとリーグ開幕で、これからの20日間は非常に重要だとチームに話した。全員がとても強烈にプレーした。 その後、サンドラと少し散歩するために出かけて、夜にはブラジル人の友達と夕食をした。兄のエドゥー、パウロ・パイッシャオン、トゥーリオ、サッポと彼のチームの選手、エドゥー。 ホテルに着くと、小さなケーキがおいてあったので、びっくり。私、サンドラとエドゥーは「ハッピーバースデー」を歌い、愛情や幸福のメッセージを私に送ってくれた全ての親類や友達に対して感謝の気持ちとして送るために写真を撮った。ここロシアでは、ケーキとろうそくの習慣がないので、我々は得になったよ! 月曜日の懇親会にて。 練習試合での写真。最後の写真は…スパイでもあり…イメージのアーティストでもあるエドゥーによるもの! ありがとう!皆さんからの愛情、言葉やメッセージに感謝します!少しずつ、全部読んでいる。皆に返事が出来るように頑張るよ!じゃ、また後で! ……
in [ダイアリー]

[2009.03.10]
「優勝トロフィの数が増えるのは確かに幸せだ。しかし今回の収穫は私自身も就任直後でチームも休暇明けと充分な調整もままならない状況下において、この様な価値あるタイトルを獲得出来たという事実だ。これからのリーグ戦また次回のCLへのモチベーションに繋がる。今日のゲームに関してはチームの健闘が光った。先制したがつまらい形で失点して同点とされてしまった。しかしながら非常に手強い相手に対しここでリズムを失わなかったことがポイントだった。Rubinは随所でリーグチャンピオンの実力を発揮したが、シュートは3本。これに対し我々はほとんど相手陣内でケームを支配していた。結果として2 x 1の勝利はチームの健闘を示す結果だったと思う。全員の勝利だ。 次回は UEFAのShakhtar戦が12日に控えている。ホームでの試合だけにポジティブな結果を求められる。積極的に行かなければならない。」
ミニ知識スーパーカップの対戦相手・Rubin Kazanについて
Football Club Rubin Kazanは、1958年にカザン市に由来したロシアのサッカーチーム。フルミネンセのような3色(赤、緑と白)、Rubin Kazanになるまで、Iskra と Rubin-TANと言うチーム名だった。現在の国内チャンピオンで、チームの初タイトルとなって7日のロシアのスーパーカップの出場権を与えられた。昨シーズンは18勝6分け6敗で、2位で終わったCSKAとの勝ち点差は4。CSKAの他に、ZenitやDynamoのような伝統的なチームを抑えて優勝をした。
1991年までに、ソビエト連邦が存在していた頃、このカザンからのチームは2部、3部と4部で活動していました。ロシア連邦の構成で、チームは2002年に1部に昇格する勢いを得た。昨シーズンまで、最高順位は、2003年の3位でした。
選手にブラジル人はいない。ロシア人の他に、3人のギリシャ人、2人のトルコ人、1人のクロアチア人、1人のアルゼンチン人、1人のスペイン人、1人のウクライナ人と1人のエクアドル人がいます。奇妙なのは、クラブの歴史にマークを残した選手のうちの1人がブラジル人のアロイージオ。彼はフラメンゴで発掘され、2003年の得点王であり、昨年まではリーグですばらしいプレーをした。
チームはトルクメニスタン出身のVitaly Kafanov監督によって指導されています。同監督は旧ソ連において、小さなチームで選手や監督として活動してきた。そして2002年にチームを昇格させるために、Rubinに赴任しました。……
in [ニュース]

[2009.03.09]
本サイトで私のコラムを見守ってくれている人物であれば、CSKAモスクワ就任時での大いなる懸念の一つはアストン・ヴィラ戦だったことを知っているはずです。決してグループに対する信頼不足や敵に対する恐れではなく、対決に際して立たされていた状況に関してです。26日に我らがサポーターの目前で我々はアストン・ヴィラを下して、UEFAカップ・ベスト16へと進出しました。初の戦を制したこの内容が今週のテーマです。
私のCSKA到着時は、明白なるクオリティーのグループを有する、既にタイトルに慣れ親しんだクラブではあるが、新監督と前監督とは完全に異なる哲学の下で、オフ期間を経て新たな取り組みに臨むという状況でした。その反面、UEFAカップ・ベスト16に向けての我々の対戦相手は、イングランドにてエンジン全開で活動しており、アゥエイでの好結果故に傑出しながら、プレミアリーグで4位につけていたのです。即ち、我々がオフ明け状態に対して、我々の敵は勢い付いていた状況でした。
しかしながら、イスラエルの地で強化合宿をスタートさせた直後に、私は目標を達成したい強い意欲を持ったグループを有していることに気付きました。特に多くの選手達は既にグループに馴染んでいたにも関わらず、彼らは練習では常に疲れを知らずに献身しながら、私の仕事方針を理解するべく規律を持って取り組みました。結局のところ、我々のアストン・ヴィラに対する始動のハンデを補うべく、ハードに臨む覚悟だったのです。そして、強化合宿セカンドレグを行うために向かったトルコでもこの姿勢は同様でした。
勿論、我々全員がCSKAモスクワは更なる進化を遂げられることは認識しております。あくまでもシーズンはスタートしたばかりだと想像すれば理解出来るでしょう。でも、我々は最初の戦を勝利で飾り、幸先の好いスタートを切ることが出来たのです。今年最初の公式180分では、我々は意欲満々の態度で、チーム・スピリッツを持って臨み、好内容のサッカーを展開して、0対0のドローでもベスト16への切符は手にすることが出来たのですが、最終的にはサポーターの前面での勝利という形で報われました。
戦いはあくまでも始まったばかりであり、今は力を取り戻して日々の献身に戻る時なのです。難しい敵と対戦しましたが、相手はモスクワへレギュラー勢を連れて来なかったことで試合のリズム感というアドバンテージを手放したのです。彼らの監督は我々相手にレギュラーチームはフィジカル面で90分持たないことを知っていたのです。結局、サブのメンバーも持ちませんでした。フィジカル面では我々のチームは万全で、以前にも話した通り、試合のリズム感不足は気合で補ったのです。
ベスト16での我々の対戦相手はウクライナのチームであるShakhtar Donetskですので、我々同様にロシア圏域となります。でも、相手はレギュラー勢にIlsinho、Jadson、WilliamとFernandinho選手が名を連ねており、CSKAモスクワよりも更にブラジリアンテイストが濃いチームです。彼らも同じくイングランドのチームであるトットナムを退けて進出を果たし、私は試合の一部を観たのですが、困難が待ち受けていることが既に判りました。でも、この種の大会では、突き進むに連れて更に困難化して来るのです。第一戦目はこちらモスクワで既に3月12日に予定されています。
UEFAの次戦へ向けての前触れは、3月07日に開催されるロシア・スーパーカップでRubinとの大変難しい決戦です。でも、今は勝利にて得た自信を糧に、更なる献身を重ねて、前進あるのみです。本日はスタジアムを満足して後にしましたが、行方には数多くの戦が待ち受けています。
それでは皆さん、また来週お会いしましょう。
ウン・グランデ・アブラーソ!……
in [ジーコの主張]

[2009.03.08]
モスクワで56歳の誕生日を迎えたばかりのジーコが、7日にLuzhnikiスタジアム行われたロシアのスーパーカップでRubin Kazanに延長の末に2-1勝利。CSKAを率いて初タイトルを獲得した。この試合はロシアのカップ戦王者のCSKAと国内リーグ王者のRubin Kazanとの間で行われた。CSKAの得点者はNecidとSemberas。
ジーコのCSKAでの初タイトルとなった。これまでジーコが監督として獲得したタイトルは「8」となった。
Supercopa da Rússia (2009) - CSKACampeonato Uzbeque (2008) - BunyodkorCopa do Uzbequistão (2008) – BunyodkorAntalya Cup (2007) – FenerbahçeSupercopa (2007) – FenerbahçeSuperlig (06/07) – FenerbahçeCopa Kirin (2004) – JapãoCopa da Ásia (2004) – Japão
……
in [ニュース]

[2009.03.07]
99年にリオのCFZジュニオールで、タッサ・サンパウロ大会で戦った、野沢拓也が再び輝いた。鹿島アントラーズはフジゼロックス・スーパーカップ、ガンバ大阪との決戦で3-0の勝利。野沢はそのうちの1得点を決めた。彼は昨年のJリーグのタイトルを手に入れた札幌での最終戦1-0の試合でも決勝ゴールを決めている。 この1試合によって競われるスーパーカップは、天皇杯覇者(ガンバ)とJリーグチャンピオン(鹿島)の対戦となった。他の得点者はマルキーニョスと興梠。1997年、1998年と1999年に加えて、鹿島アントラーズのゼロックススーパーカップでの4回目の優勝となった。
ジーコはこのニュースを聞き喜び、そしてチームにメッセージを送った:「鹿島がスーパーカップで4回目のタイトルを獲得したと聞てすごく嬉しかった。クラブが、益々勝ち誇る歴史を続行するように願っている。オズワルド、選手たち、クラブのメンバーや、特にサポーターたちに、おめでとうと伝えたい。また、ブラジル人たちとキャリアの始めにリオのCFZで一時を過ごした野沢に対して特に嬉しく思う」とガリーニョがコメントをした。
ミニ知識:MF野沢拓也は1981年8月12日に茨城県に生まれ、少年団でプレーした後、鹿島アントラーズのジュニアユースに入った。ユースではジーコの兄、エドゥー・コインブラにその才能を認められた。そのエドゥーの勧めもあり99年にリオのCFZジュベニールでもプレーした。……
in [ニュース]

[2009.03.06]
27日にはチームの練習はOFF、28日には、アストンビラ戦に出場しなかった選手はトレーニングセンターで国内リーグ3部のZorkiyとの練習試合を行った。 スコアボードは7-4で終り、注目選手は4得点を決めた若いチェコ人FWトマス・ネチドと、2得点を決めて更に味方がゴールを決める為に素晴らしいパスを出した、ダニエル・カルバーリョ。ネチドは、1得点を決めたアストンビラ戦を含めてUEFAカップにはエントリーされていない。今回の大会が始まったときに彼の移籍前のクラブでプレーしたからである。イングランド人たちと対戦した選手は、筋肉トレーニングをしてピッチ周りを20分走った。3月1日には我々全員が休みを取り、2日から、スーパーカップにおいて7日のRubin戦に向かって、毎日12時にトレーニングを行う予定。
……
in [ニュース]

[2009.03.06]
我々は、1日の夜に、クラブで開催された懇親会に参加した。私の右側にいるのは、クラブの代表取締役社長で、彼の隣は昨年のリーグ準優勝において選手たちへメダルを渡した、ロシアサッカー協会の会長。 Zhirkovは2008シーズンでCSKAの最優秀選手として、サポーターやマスコミからの賞を受賞した。約3000人が出席し、サポーターが選手たちと一緒に写真を撮ったり、私と代表取締役社長に質問が表示された。このイベントはシーズンスタート前に毎回行われている。
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[2009.03.05]
キンチーノのガリーニョは3日に56歳を迎えた。ロシアのスーパーカップ決勝のためのCSKAの最終準備中に、ジーコは、妻サンドラ、兄エドゥーとブラジルの友人たちからの祝福を受けた。
「皆さん、どうもありがとう。何百ものメールを受けた為、皆に返事ができなく、多くの電話にも出る事が出来ませんでした。さらに、サイトのスタッフが何百ものメッセージが届いていると伝えました。私には感謝する事しか出来ません」とジーコが述べた。56歳のパーティーは控え目であった。先ず、滞在しているホテルで、ジーコはビデオレターで孫フェリペからのお祝いを受けた。‘ダーダー’や他の中途半端な言葉でブルーノ・コインブラとダヌービアの息子は確かにおじいちゃんに彼の愛情を送った。 ジーコとサンドラはその後、友人たちと夕食へ。エドゥー、パウロ・パイッシャオン、トゥリオ、セルジオ・サッポとエドゥー(サッポが率いるフットサルチームに所属している選手)によるブラジルパーティー。ホテルに着いた時、サプライズが待っていた: 誰かが、名プレーヤーのために小さなケーキを置いていった。
「ここでは誕生日にケーキを食べる習慣がないため、エドゥーの時はケーキがなかったので、二人の誕生日として、ろうそくを消してケーキを食べた。ここモスクワでブラジル風のミニパーティーが開かれたので、友人や親類に送るために写真を撮った」
他の写真はジーコの日記に送ります!……
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[2009.03.04]
鹿島アントラーズは、クラブの発展に寄与した功労者を称えるため、「鹿島アントラーズ功労賞」を新設するとともに、カシマサッカーミュージアム内に「鹿島アントラーズ殿堂」を設置した。 功労賞受賞者を殿堂において掲額している。クラブの発展に貢献した人物を称えるとともに、その活躍を後世へと伝えていくことをクラブの責務と考え新設された。選考はクラブ内に設けた選考委員会が行い、委員長は代表取締役社長が務める。カシマサッカーミュージアム内の殿堂コーナーに功労賞正賞である顕彰額のレプリカを制作し掲額する。さらに活躍時の写真。選手ゆかりのグッズ等を展示している。第1回はスターティングイレブンと銘打ち、11人を選出した。現役選手(クラブを問わない)およびアントラーズのスタッフとして在任中の人物に関しては今回の選考から外された。クラブの歴史において最大の功労者であるジーコは殿堂でも特別な場所に展示されている。CSKA監督としての仕事があり、彼はまだ功労賞を受け取っていない。しかし、ガリーニョは既に他の3人のブラジル人、元選手のジョルジーニョとビスマルク、そして2000年から2005年までの間のチャンピオン監督トニーニョ・セレーゾの隣で殿堂コーナーにいる。今回の栄誉が与えられた方は以下のとおり。ジーコは、住友金属(翌年、鹿島アントラーズに改称した)に加入した1991年に、クラブの歴史を変えた。日本サッカーのプロ化への始まりであった。ガリーニョは、選手、監督、テクニカル・ディレクターとして活動した。 鹿島在任中には、J初の3冠を獲得した。 1997に加入。3冠制覇時のメンバー。2001年にはJリーグのベストイレブンに選出され、更に、1994年から2003年までに日本代表チームの38試合に出場した。 2月1日に引退試合を行った。クラブで10年間を過ごし、9タイトルを獲得し、鹿島が日本の最大チームになるように寄与した。1995年から2003年の間に日本代表チームの44試合に出場した。 チームと共に獲得した数々のタイトルの他に、Jリーグベストイレブンに4回選出された。さらに、日本代表チームの58試合出場した。 鹿島アントラーズでプロ選手としてのキャリアをまっとうした。クラブで14年間プレイし、数々のタイトルを獲得。300以上のゲームに出場した。 ミッドフィールドでプレイし、鹿島で活動したシーズンには中心選手となった。1996年と1998年にJリーグを2回優勝。そして1996年にはリーグMVPとして選ばれた。 ジーコが使用した背番号10のシャツの後継者である。得点を重ね3タイトルを獲得、鹿島でプレーした5年間で歴史に名前を残した。 ジーコと共に、鹿島アントラーズ第一世代のプロ選手として活動した。情熱的な選手で、J1とJ2の他のクラブにも在籍したが、鹿島で彼自身の歴史を残した。2003年にサッカーを引退した。 FWとして優雅さを与え、鹿島アントラーズでプロ選手のキャリアをまっとうした。258試合に出場した。 宮本征勝は鹿島アントラーズで選手ジーコにとって最後の監督であった。プロサッカーの最初の2シーズンでチームを率い、アントラーズ栄光の歴史をスタートさせた。1938年7月4日に生まれ、残念ながら2002年5月7日に亡くなった。鹿島からの功労賞の顕彰額を受け取ったのは宮本夫人。 ……
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[2009.03.03]
2月22日に、私は宿泊しているホテルに大の親友であるセルジオ・サッポと、Dnamo Yamalで彼の選手でもあり、ロシアサッカー(フットサル)界で7シーズン目を迎えるエドゥー選手の、訪問を受けた。 リオ・デ・ジャネイロにてサッポが現役終盤時代にエドゥー選手が一緒にプレーをしたこともある。 彼ら二人を26日に行われる我々のアストン・ヴィラ戦に招待したが、彼らも木曜日と週末にロシア有数の極寒の町で試合があり、水曜日に移動するとのこと。何と氷点下30度の寒さらしい。これ以上のアイスキャンディーはあるのだろうか! サッポのこちらでのこの新たなチャレンジに幸運を祈るよ。偶然にも、日本の代表で共に過ごしたあの時代を経て、人生が再び我々を近づけたのである。今はサッカーではお互いライバル同士のクラブでも、大事なのは友情だ。彼がこちらで顕著な仕事を展開できることを応援しているよ。 ミニ知識・・・ディナモに関して!!! MFKディナモは、ロシアの伝統的なサッカークラブであるディナモ・モスクワの分派として2002年05月08日に誕生。一般的にはDnamo Yamalの名称で知られており、国内大会6タイトル(ロシア・スーパーリーグ4回、ロシア・カップ2回)という輝かしい歴史の持ち主。でも、最も価値ある偉業は、2007年度フットサルUEFAカップの制覇である。ディナモはそれ以外にも欧州主要大会で2度決勝進出を果たしている。 UEFA公式データーによると、ジーコが上記で紹介したエドゥー(Eduardo Euzebio Caetano)選手以外にも、セルジオ・サッポは他に3人のブラジル選手をチームに有している。Pula、TatuとJoan選手だ。更にはロシアに帰化しているPel Juniorも所属している。 MFKディナモは再びフットサルUEFAカップ準決勝進出を果たしている。抽選は来週の土曜日に予定されており、可能性のある何れかの対戦相手は、同じくロシアのMFK Ekaterinburg、カザフスタンのKairat Almaty、そしてスペインのInter Movistarだ。そして、最終ラウンドはロシアのEkaterinburgで4月の24日と26日に開催予定。……
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[2009.03.02]
ここCSKAに来る前に、元選手仲間であり「ジーコの部屋」のコーナーで数多くの話題になった人物、ペゥーを私の家で迎える機会があった。 彼はサイトへのリクエストをする為に私に会いにきたのだ。 「ガ、ガーロ(ジーコ)、どうしてなんだ、わ、訳が、わ、分からん。ぼ、僕、ペ、ペゥーが、も、もう、き、君の、さ、サイトに、で、出てな、ない!き、君は、ぼ、僕の、は、話を、わ、忘れたの、か、か?」とクレームを言った。 そう言う事ではなく、まだ他にたくさんの話を紹介する必要があった事を彼に説明したが、ペゥーは納得しなかった。そして彼は、我々がかつてフラメンゴ時代にブラジル国内や海外遠征での様々なエピソードついて話しだした。そのうちの幾つかは私がもう忘れていた事もあった。更に、最近アラゴーアス州の他の仲間たちのエピソードペゥーは話してくれた。 ペゥーはいつも我々を楽しませてくれる奴だ。彼のことを知っている人は‘多少’言葉をうまく話せないことを知っている。そして、ペゥーから聞いた新しい話の中で一番面白かったのは、試合の為にイトゥーの町に遠征したFWが、ホテルのロビーで受付係に、なぜホテルのホールにある大きなテーブルの上にとってのついてない大きなバケツがおいてあったのかと聞いたときの返答。イトウーは街のあちこちに巨大なスプーンなど、大きなオブジェがある事で有名な町である。 「あ~あ、又しても我々の仕立て屋が指キャップを薬箱の上に忘れて行った見たいだね。」と、受付係がベウーの友人に話したからである。 あの我々の80年代のチームが、「巨大なものがある土地」として有名である、イトゥー町で決してプレーした事がない事を思い出させた・・・しかし、ペゥーはそのサンパウロ州の町で起きてもおかしくないのと同じようなエピソードでイタリアのカプリで主役になった。 1981年に、ナポリで試合があったので、我々は、ナポリにある非常に美しい島カプリに行く事になった。チームが休みだった時に、ほとんど全員が勧められたシーフードレストランへ行った。そこに着くと、ペゥーが真っ青になっていた事に私が最初に気がついた。そのレストランには当時ブラジルでは存在しなかった特徴があった。食事に出される魚や魚介類は前方に露出されていた。彼は反応なくただ入口を見ていた。魚は水槽の中いて、その他のものはぶら下っていた。 ペゥーが先ず見たのは、大きなフックに掛けられていた巨大なエビ。それは、壁との間にある一種の柱のようだった。アラゴーアス州出身の彼は、あのようなものを見たことがなかったので、とても仰天していた。 「ペゥー、どうしたの?催眠術をかけられたのか?」と私が聞いた。 「い、いや、ガ、ガーロ…う、嘘、だ、だろう!!!」 私は尋ね、彼は繰り返し述べた「う、嘘、だ、だろう!!!」 みんながペゥーの周りに集まってきて、笑うべきか、なにをすればいいのか、分からなかった。彼が逆上していると思って、我々は心配していた。しかし、ペゥーにはそんな心配は必要なかった。 「お、おーい、ジ、ジーコ、み、みんな・・・ か、壁に、か、掛かって、い、いる、エビを、み、見て、ご、ごらん。す、凄い!・・・こ、ここの、エ、エビが、そ、その、お、大きいさ、で、あ、ある、な、ならば、、にわとりは、ど、どれ、く、位、の大きさなのだ、だろう!」 2分間の沈黙、そして全員の大爆笑。このような発言は、さすがにペゥー。彼は本当に面白い人… ……
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