ジーコのパドリーニョ(宗教上の義父)およびジーコの発見者、セルソ・ガルシアが亡くなった
[2008.11.26]
23日朝に、フラメンゴの大フアンでもあったジャーナリストのセルソ・ガルシアが心臓の合併症で亡くなりました。ブラジルでスポーツのラジオアナウンサーのエース格の1人として、そして1967年9月28日に少年ジーコをフラメンゴに連れていった「ジーコの発掘者」として有名になりました。またスポーツアナウンサーで "スコアの男"として知られていました。
リオの郊外に位置する、インヤウーマ墓地のルーム2、サンタ・リタ・デ・カッシア礼拝堂にて通夜・葬儀が行われました。フラメンゴの取締役社長、マルシオ・ブラガがクラブで3日間の哀悼日に指定することを決めました、そしてミネイロン・スタジアムで行われるクルゼイロ対フラメンゴの試合キックオフ直前に、そのフラメンゴの大フアンの逝去に対し、死後の敬意として、1分の沈黙が与えられました。
ジーコのパドリーニョおよび発見者であるセルソ・ガルシアの死亡の情報は、ウズベキスタンのタシケント市にいるジーコにとっては突然の訃報でした。ブニョドコルが事前に優勝を決めたウズベキスタンリーグの最終節において、ちょうどアウエーゲームで1-1で引き分けたて帰ってきたところでした。知らせたのは、妻サンドラ・コインブラ。
放心状態でジーコは話しました。
「本日はとても悲しい日。セルソは私の人生にとって特別な人物だった。この私自身のスポーツ史において最も重要な人は、そのうちに友人、私たちの家族の一員以上の存在になっていきました。彼はほとんど毎週日曜日の放送の前にキンチーノ市で私の家で過ごし、私の兄のようだった。そして私とサンドラの婚姻の際にパドリーニョになってもらった。
セルソは、偉大なラジオアナウンサー、コミュニケータ‐であり、息子は白血病犠牲者で私生活を戦った戦士だった。また疲れを知らない人だった。安定した家族を残し、そして彼を知る全ての人に対して、多くの郷愁をそそって彼は去って行く。私は遠く離れていて、彼にお別れをすることはできなくて申し訳ない。非常に申し訳なく思っている。最後に会ったのが、7月に行われたキンチーノ市のユース・フェスティバル。彼は決してあのイベントを欠席することはなかった。
我々は、セルソがいなくなって寂しくなる… 私と同様に、フラメンゴを情熱的に応援する多くの人々がフラメンゴを見てきた。しかしながら、セルソは違っていた。私が知る中で最大のフラメンゴファンであった。クラブを愛する人は他にもいるかもしれないが、セルソ・ガルシア以上にフラメンゴを愛した人は絶対いない。パドリーニョ、サウダージ。」