モラシー・サンターナ
[2006.08.16]
近代的なテクノロジーを駆使してサッカーのために高レベルで質の高いなフィジカルトレーニングを施しているプロフェッショナルがいるとしたら、それはモラシー・サンターナである。1951年7月6日、サンパウロ州サンターナ・デ・パライーバに生まれた。1974年にはサント・アンドレー体育大学を卒業。モラシーはブラジル国内でも海外でも多くの勝利を得て来ているがその常に新しい事を学び実行する功績は世界でも認めているところである。
ざっとこの30年間の経歴には、1991年にブラジル選手権優勝、92,93年世界クラブ選手権優勝を果たしたサンパウロFCの羨ましい限りの肺活量、体力の責任者でもあり、2002年のコリンチアンスでのブラジルカップ優勝、94,95年度のフェネルバフチェでのトルコ選手権優勝でも同じ事が言える。さらにブラジル・セレソンでは、1994年W杯米国大会でフィジカルコーチ、2005年にはコンフェデーレーションズカップにも帯同した。更に1988年のアジアカップではサウジアラビアを優勝に導いている。もっと色々あるのだが、後は彼との会話で話してもらおう。イスタンブールに置いてはジーコ自身が直接インタビューした。
ジーコ- モラシー、フィジカル・トレーナーになった経緯から話して貰えますか?
モラシー 「私が始めたのはサンパウロの名門パウメイラスからです。あの時はまだ体育の学生でしたが、1973年でしたね、エットーレ・マルケッチ監督で、丁度下部組織の8-10歳ぐらいのカテゴリーでアシスタントコーチを必要としていました。そこに3ヶ月在籍し、その後ジュベニールとジュニオールカテゴリーにも3ヶ月居ました。そのまま続けてプロチームのアシスタントになったのが1974年でその年には大学を卒業しました。」
ジーコ -あの頃のフィジカル・トレーニングはどんな風でしたか?
モラシー 「あの頃は殆どが経験主義でした。経験からの指導法が多かったのです。テストするにもそれだけの知識も少なかったし、先進国並の発展したテクノロジーまではまだアクセスも無かった時代です。選手達はみんな同じ様に練習して、同じ時間、同じ強度でやっていました。現在では科学的に、理学的に検査される条件が備わっていますからもっと精密な仕事も出来るし、科学的で個人的、つまり個別に診て完璧に近い処方が出来ます。この方法によって選手の持っている能力を最大限に引き出す事にも繋がっています。」
- 君の経験は海外でも豊富なところが気になるけど、ブラジルとの差と言うのは有りますか?
モラシー 「私はサウジアラビアでも、UAEでもスペインでもトルコでも仕事をしてきました。それぞれの国でその違いは確かに困難でも有りました。サウジとUAEでは主な問題としては彼等はプロ意識が無くて、と言うよりプロじゃないのですね、それで練習もきちんとやらない。やる義務が無いから。だから個々のコンデイションをコントロールして維持するのが大変難しかった。スペインに行くと、今度はあちらは二部練習をする習慣がないのです。そこで定期的にデータを取るやり方を考えるしかなかった。そう言う練習も少なかったのです。トルコではもっと簡単でした。とにかく選手等は練習をするのが好きだったので問題は無かったのです。私のやり方を植え付けるだけだった。」
- そうみたいですね。アラビアの国では君が苦労したのは解ります。
モラシー 「そうなんです、ジーコ。プロでなくて練習する義務も無い彼等の言い訳はいつも母親をメッカに連れて行かねばならないとかでした。それでフィジカルトレーニングには来ないのです。時折私はテレー(サンターナ)と場所を代わって私の練習をやったりしましたよ。もう一つの問題は食事でした。彼等はよく何も食べないで練習に来たりしていて、結局体力がもたないから途中で止めざるを得なくなる。」
- 凄い差とプロ意識の欠陥、私も日本に言った時に出くわしましたが-、少なくとも話題の種になった・・・
モラシー 「そう、アラビアはついたとたんだった。王子が宮殿に招いて夕食の座に入った時だった;床の絨毯にみんな座るのです。私たちはどんな風に食事をするのか興味深々だった。驚いたことに彼等は手掴みで食べ物を皿に取って私たちに配るのです。あれには正直言って中々食べられなかったね。自分で取った食べ物だけちょっと食べて誤魔化しました。面白いのは出会った時には全員が全員と挨拶するのだが、食事が済んで帰る時には誰も挨拶もせずに勝ってに帰って行くんですよ。今は変わったかもしれませんが、あの夕食会では私も満腹にならなかったね」(笑い)
- 解りますね。異文化の中に入ると人生でも全く違った体験を我々はするものです。
モラシー 「それに、宗教の話をすると、アラブで絶対的に優勢なのはイスラム教ですね。習慣として一日に5度祈りを捧げます。その間商店などは全部閉めています。選手達も練習を中止して祈ります。洋服も西洋とは全然違いますし、女性はブッカと言う布で顔を覆っていますね。こうした事は私達の強い注意を引きますが時にはショックさえ感じます。結婚式になるとパーテイーは別々に行なわれるし、主なパーテイーは男性ばかりでもう一つは女性専用なのです。とにかく違いが多すぎる。」
- モラシー、私たちは文化の違いばかり話しているけど、セレソンではどうでしたか?いつも経験は重要だと思いますが・・・
モラシー 「二つのワールドカップで随分勉強しました。82年と86年でアシスタントコーチでしたが、二回とも負けましたね。私が実際に指導したのは94年でしたが、大変貴重な経験となりました。あの時は総て順調に事が運んでやることが総て上手く行きました。結果としてタイトルをブラジルにもたらしたのですが。90年のイタリア大会にはUAEの主コーチで参加しましたし、98年フランス大会にはサウジアラビアで参加しています。セレソンに帯同するのはどんなプロフェッショナルの経歴でも最たることだと思いますね」
- もっとたくさん話をしたいのですが、話題を変えて現在のフェネルバフチェと1994年に一度パレイラと一緒に来た頃の事を少し話してください。
モライシー 「違いは大きいですね。クラブの施設や組織が大変良く成っています。トレーニングセンターも素晴らしく良くなっています。スタジアムも近代的になっているし、チームは1995年に来た時と違って強くなっています。基本的に設備も経済面も良くなっているので、必然的にチームも良い編成が出来ていると思います」
- さて、最後には君のためにスペースを作ってあります。
モラシー 「ジーコとこうして再び一緒に仕事が出来る幸福感を感じてその気持ちを此処に表したい。選手として活躍している頃私もいつも尊敬し、いろいろ勉強もさせてもらいました。今はその“神様”が横に居て一緒にこのチームを指導する栄誉を感じます。私の喜びは大変大きなものです。ジーコが大事にしているこのサイトにも出られ幸せです。読者の皆さんには幸運と私のアブラッソを送ります。“神様”は皆さんに祝福を与えます」